『名医が教える飲酒の科学』に学ぶ
池袋の三省堂書店で『名医が教える飲酒の科学』を手に取ったら買ってしまった。目次を見たら「なぜ酔っぱらっても家に帰れるのか」とか「酒乱かどうかの決め手は「記憶の飛び」」など書かれていたから。
池袋の三省堂書店で『名医が教える飲酒の科学』を手に取ったら買ってしまった。目次を見たら「なぜ酔っぱらっても家に帰れるのか」とか「酒乱かどうかの決め手は「記憶の飛び」」など書かれていたから。
根岸吉太郎監督の『ゆきてかへらぬ』を劇場で見た。昔と違って今は封切り後ひと月たつと上映館や時間が少なくて探すのに苦労したが、小林秀雄と中原中也の話だし、久しぶりの根岸監督なので見たかった。
先月から「ブリティッシュ・ノワール映画祭」をやっている。「ブリティッシュ・ノワール」というのは、1940年代からのアメリカの「フィルム・ノワール」や戦後のベッケルやメルヴィルらのフランスのギャング映画に比べると、知られていない。少なくとも私は全く知らなかった。ためしに代表作という『日曜日はいつも雨』(1947)を見て驚いた。
先日、学習院大学に中条省平さんの最終講義を聴きに行った。いわゆる最終講義にはほとんど行ったことがなく、数年前の早大の武田潔さん以来か。考えてみたら、お二人とも1984年夏から1年間の私のパリ留学中に知り合った。
アラン・レネの『ジュテーム、ジュテーム』(1968)を劇場で見た。これは昔、フランス留学中に見たはずだが、寝てしまった記憶しかない。日本の映画館で上映するのはたぶん初めてなので、見に行ってみた。
4月13日までサントリー美術館で開催の「没後120年 エミール・ガレ 憧憬のパリ」展を見た。北フランスのナンシーに住み、何度かのパリ万博を始めとしてたえずパリで作品を見せて売ってきたという観点からガレの全体像を見せるものだ。
「フレデリック・ワイズマンのすべて」と題して、彼のドキュメンタリーで現在上映可能な44本すべてが昨年12月からこの3月末まで上映中だ。私は特に初期はあまり見ていなかったので、空いた時間を見つけてときどき出かける。
東京都現代美術館の「音を視る 時を聴く 坂本龍一」展が異様なほど賑わっている。あの館のこれまでの最高入場者は1996年に私が担当した「ポンピドー・コレクション展」で確か30万人を超したが、今回はそれを越す勢いという。これがわからない。
私が中学生の頃、「ギャラーン、シグマー!」と最後に高らかに叫ぶ車のCMがあった。シグマはΣという中学生にとって謎の文字で、この車に乗ると夢の世界へ行けるような気がした。今考えると、1970年代後半で日本の高度成長期の最後のあたりの輝きだったようにも思える。
「『ブルータリスト』がわからない」と書いた後に思いだしたのは、昔、「朝日」の同僚だった記者のこと。彼は少しでも難しい映画は嫌いで「わからない」と正直に言っていた。今、世界に必要なのは「わからない」と言う勇気なのかもしれない。
ブラディ・コルベット監督の『ブルータリスト』を劇場で見た。ベネチア国際映画祭で監督賞だし、アカデミー賞10部門ノミネートだし(3部門受賞)、3時間35分の長尺というのも気になった。結果は私にはかなり退屈で悪趣味な映画に思えた。
昔、「ミロを見ろ」というオヤジギャグがあった。東京都美術館で始まったばかりの「ミロ展」は、久しぶりにその言葉を思い出させたくらい「見るべき」展覧会だ。100点ほどだが、20代半ばの初期作品から晩年の大作までまんべんなく並んでいる。
前にここで書いたように、一昨年から昨年にかけてフランスの映画界ではフィリップ・ガレルやジャック・ドワイヨンなどのポスト・ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが、次々と過去のセクハラで告発されている。その中心となった女優のジュディット・ゴドレーシュは去年のカンヌでそれを取り上げた映画を発表して話題になった。
今朝ここにアップしたものがこのブログを運営する「ココログ」の不手際で消えてしまったので、別の文章を書く。もしそれが出てきたら、その時点でアップしたい。さて小田香特集である。恵比寿映像祭で『母との記録「働く手」』を見て衝撃を受けたので、特集にも出かけた。
カンヌで審査員特別賞を受けたイランのモハマド・ラスロフ監督『聖なるイチジクの種』を劇場で見た。イランで有罪判決を受けて国外に逃亡し、28日かけてたどりついたカンヌで受賞したという話を聞いて、とにかく見たいと思った。この20年ほどのイラン映画は秀作が多いし。
すべてを忘れて映画に集中する体験をしたければ、『セプテンバー5』を見たらいい。ティム・フェールバウム監督の映画は初めて見るが、とにかく95分間、最初から最後まで画面から目が離せない。
恵比寿映像祭は終わったが、小田香や小森はるかの映像を展示した「コミッション・プロジェクト」は3月25日まで開催中だ。これは5人の専門家(?)が選んだ日本在住の作家に新作を委嘱するして展示するシステムのようだ。今回は4人が選ばれており、ほかには永田康祐と牧原依里。
もうとっくに終わったが、終盤に見た2本のホラー映画についても触れておきたい。チャノ・ウエルタ監督の『魔女の鏡』(1960)と『アルカルダ 鮮血の女修道院』(1977)だが、それぞれ75分、78分という短さがいかにもジャンル映画らしい。
今日まで開催の東京都写真美術館を中心にした「恵比寿映像祭」に行った。今年で17回目で毎年意味不明のテーマ(今年は「Docsーこれはイメージです」)を掲げたこの無料展覧会が私は苦手だが、今回は小田香と小森はるかの作品が抜群によかった。
これまた1年以上放っておいた本、伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史 1910-2023』を読んだ。もともと「ヤクザ映画」自体をあまり見ていなくて、山根貞男さんや蓮實重彦さんがほめる東映の任侠映画を十数本見たくらい。
島崎今日子著『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』をようやく読んだ。『週刊文春』の連載の時に気になったので1年以上前に買っていたが、そのまま放っておいた。ジュリーという存在は、私にとってはどこかピンと来なかったからかもしれない。
昨日終わった「メキシコ映画大回顧」だが、終盤にようやく暇ができて見に行ったのは「ルベン・ガメス」作品集。チラシに「1965年に「ヌエボ・シネ」の流れを汲み、保守的な映画産業の刷新を問いかけるかたちで始まった「第1回実験映画コンクール」。 そこで『秘められた公式』が一位に輝いたルベン・ガメス (1928―2002)の4作品を上映」と書かれていた。
ノーベル賞を取った韓国の女性作家、ハン・ガンは、最近『すべての、白いものたちの』と『少年が来る』を読んだが、その詩的で内的な世界が妙に気になって『菜食主義者』を読んだ。今回はこれまでの2作と違ってずいぶん物語性が強く、あっと言う間に読んだ。
死ぬと決めた日の前夜、親しい友人とバスター・キートンの『セブン・チャンス』を大笑いしながら見る。そして翌日、黄色の上下に身を包み、テラスのソファで静かに眠る。あんな死に方ならいいなあ。先日、映画館で見たペドロ・アルモドバル監督の『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』のことだ。
このブログが便利なのは、あとから自分がいつ何をしたかがわかること。ちょうど日記や手帳を見るように、見た映画や展覧会、読んだ本などがいつなのか、ほぼわかる。この歳になると見た映画さえもさっぱり忘れてしまうから、自分でブログ内検索をすることも多い。
映画の理論系専攻を希望する学生が増えたと書いた。これにはもう1つ理由がある。理論系では同時に「映画ビジネス」も教えるからだ。大学で「映画ビジネス」というのは、普通に考えたら教えるのが一番難しそうだ。
新聞にはよく「続きもの」がある。あるテーマをシリーズで何回かに分けて書く記事のことだ。私は新聞社を離れてもう16年もたつのに、ここでよく「続きもの」を書く。中には一回目で終わることもあるが、それでも「続きもの」を思いつく瞬間が楽しく、先のことを考えずに始める。
いつの間にか「メキシコ映画大回顧」が始まって、ようやく2本見たらもっともっと見たくなった。ところが全く時間が取れない。大学は学期末試験と採点、ゼミ誌指導、卒論審査に加えて修論や博論の審査と続く。赤ペンを持って他人の文章を直すだけで丸一日が過ぎてゆく。
ノーベル賞を取った韓国のハン・ガンは、ここに先日書いたように『すべての白いものたちの』が文庫になっていたので読んだ。その静かで詩的な独白に惹かれて、次に買ったのが単行本の『少年が来る』。
上映中の吉田大八監督の映画『敵』の主人公は私のようだ、と何度か言われた。私は東京国際映画祭で見たが、確かに「元大学教授」という設定で、かつての教え子の美女や若い女性に妄想をする姿はいかにも私にありそうだ。そのうえ、その教授の専門は「フランス演劇」で、時々フランス語の原書を読むところなどもちょっと近い。
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