『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』に驚く
3月26日公開の池田暁監督『きまぐれ楽隊のぼんやり戦争』を試写で見て邦画で久しぶりに驚いた。普通私は試写の時はノートを持って気になったシーンや言葉をメモする。この映画でも構えていたが、「なんだこれは」と思っているうちにいつの間にか終わってしまった。
3月26日公開の池田暁監督『きまぐれ楽隊のぼんやり戦争』を試写で見て邦画で久しぶりに驚いた。普通私は試写の時はノートを持って気になったシーンや言葉をメモする。この映画でも構えていたが、「なんだこれは」と思っているうちにいつの間にか終わってしまった。
アーティゾン美術館にまた行った。この美術館は15年頃前に改装されたニューヨーク近代美術館に近い感じで、都会のビル街にありながら中に入ると広い空間に溢れ、実に気持ちのいい空間だ。今回は「STEPS AHEAD 新収蔵作品展示」という題で、所蔵品のみの展覧会が3つのフロアーすべてを使って開催中だ。
フランス映画には確実に「映画通にしかおもしろくない映画」が存在する。1970年代以降のゴダールの映画はそうだし、クロード・シャブロルもジャック・リヴェットもそんな映画をたくさん作っている。1950年代半ばに批評家時代のフランソワ・トリュフォーは、当時の保守的なフランス映画を「フランス映画のある種の傾向」という文章で徹底的に批判した。
「手癖が悪い」というと、普通は物を盗む人やすぐに異性に手を出す人を想起する。「足癖」という言葉はあまり使わないが、先日またマンションの1階下の玄関扉を開けてしまった。足が自然に向かうのは「足癖」ではないだろうか。
岨手由貴子監督の『あのこは貴族』を劇場で見た。新聞各紙の夕刊評でも大きく取り上げられていたし、予告編も気になったので期待して見に行った。期待通りなかなかおもしろかったが、見ながらどこかさめてもいた。
山本武利氏の出たばかりの新書『検閲官 発見されたGHQ名簿』を読んだ。敗戦後の占領下の日本で、占領軍GHQで郵便、電信、電話などの通信と新聞、出版、映画、演劇、放送などのメディアを検閲していた民間検閲局(CCD)で働いていた約2万人の日本人について調べたものである。
3月26日公開のクリスティアン・ペッツォルト監督『水を抱く女』を見た。ドイツの「ベルリン派」のこの監督は、かつて私が2005年から3年間やった「ドイツ映画祭」で紹介した監督のなかでほとんど唯一、その新作が毎回日本で公開されている。
総務官僚10数名に東北新社が接待をしたことが、大きなニュースになっている。東北新社は映画配給もしているので、ちょっと気になる。映画業界では「新社」と呼ばれていて、配給以外にCM制作やスーパー経営までしているかなり異色の存在だ。しかし個人的には「接待」という行為に引っかかった。
韓国映画『藁にもすがる獣たち』を見た。これがよくできたB級サスペンス映画で何度もうなった。有名な俳優も揃っているのでてっきりベテラン監督かと思ったら、キム・ヨンフンの初長編監督・脚本という。
自分の本棚にあった岩波文庫の池内紀編訳『カフカ短編集』をなぜか読んだ。奥付を見ると、私が買ったのは2018年6月5日発行の第56刷だからかなり最近のことだが、買った記憶さえもなかった。ふと読み始めたらこれが滅法おもしろかった。
フィンランドのミカ・カウリスマキ監督の『世界で一番しあわせな食堂』を劇場で見た。弟のアキ・カウリスマキの映画は毎回見ているが、ミカの方は『ヘルシンキ・ナポリ/オールナイトロング』(1987)から見ていないかもしれない。見に行ったのは映画評を見たから。
三菱一号館美術館で始まったばかりの「テート美術館所蔵 コンスタブル展」を見た。正確に言うと、珍しく内覧会に出かけた。昨年5月に『美術展の不都合な真実』という本を出して以来、知り合いから文句を言われそうでそういう場は遠慮していた。コロナ禍でオープニング自体が減ったこともあるが。
3月20日公開のドキュメンタリー『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』を見た。「編集」を担当したパリに住む友人、渡辺純子さんから連絡があったから。監督のさかはらあつしはオウムによる地下鉄サリン事件の被害者だが、114分、その濃密な時間と空間に震えた。
最近、自宅のマンションのすぐそばのホテルに泊まる機会があった。もともとは歯科医院があった場所だが、ある時ホテルができるというので説明会があった。間口は4メートルくらいで、奥は20メートルほどある実に細長い土地でどうしてホテルが建てられるのかと思った。てっきりラブホテルと思ったが、そうではないらしい。
西川美和監督の新作『すばらしき世界』を劇場で見た。この監督の映画は『ディア・ドクター』や『夢売るふたり』などの秀作を作り続けているが、どこかうますぎるというか、設定も展開も俳優もいささかトリッキーな感じがしていた。ところが今回は違った。
この1年ほど、毎朝体温を測っている。大学でも「健康管理システム」で大学生に一日2回の入力を義務付けたこともあって、自分も朝起きたら体温計を当てることにした。こういうものは習慣にした方がいいので、朝起きてトイレに行って水を飲み、それから測る。
国立映画アーカイブの「中国映画の発展」で『女神』(1934年)を見た。中国のサイレント期のスター、阮玲玉(ロアン・リンユィ)の代表作だが、この女優の名前は香港のスタンリー・クワン監督が1991年に作った『ロアン・リンユィ 阮玲玉』で知った。
映画館のパンフレットは日本独自の制度だというのはよく聞く話である。少なくとも欧米にはない。おもしろいのは、これは基本的に映画館が作ることだ。東宝系の劇場でかかる映画は主に「東宝ステラ」という子会社が作っている。
19世紀イギリスの作家、チャールズ・ディケンズの自伝的小説『デイヴィッド・コパフィールド』は、サイレント時代からこれまで何度も映画化されている。実は原作小説は読んでいないけれど、映画は何本か見たのであらすじはわかる。
イタリア年で企画した2本の映画祭のうち「イタリア映画大回顧」は、当時のフィルムセンターの大場主幹と岡島研究員にイタリア映画研究家の柳沢一博氏、字幕翻訳家の吉岡芳子氏、それに私を加えた形で委員会を作って作品を選んだ。しかし「イタリア映画祭」は朝日ホールでの開催なので、自分で作品を選ぶ必要があった。
国立映画アーカイブの「中国映画の展開」で『木蘭従軍』(卜万蒼監督、1939年)を見た。去年、実写版のディズニー映画『ムーラン』を配信で見たが、その原型の一つがこの作品だ。「木蘭」は中国語で「ムーラン」であり、もともとは中国の古い歌から来た物語のようだ。木蘭従軍とはムーランが軍隊に行くという意味になる。
池波正太郎の有名な『鬼平犯科帳』のような小説は全く読んでいないが、彼のエッセーは何冊か読んでいる。たまたま家の本棚の整理をしていたら、文庫の『ル・パスタン』があった。「ル・パスタン」はフランス語Le passe-tempsで、「暇つぶし」。この題名に惹かれた。
最近、韓国映画は『タクシー運転手』や『1984』など現代史を取り上げた力作が多い。劇場で見たウ・ミンホ監督の『KCIA 南山の部長たち』もそうで、1979年の朴正煕(パク・チョンヒ、昔は「ボク・セイキ」と言った)暗殺事件を追った迫力満点の映画だった。
イタリアの撮影監督、ジュゼッペ・ロトゥンノが亡くなった。昨朝の「朝日」にはAFP=時事電で訃報が載っていたが、代表作にヴィスコンティの『若者のすべて』や『山猫』がなくて、ジョン・ヒューストンの『天地創造』やボブ・フォッシーの『オール・ザット・ジャズ』があるのに拍子抜けした。
毎週、金曜日は各新聞の夕刊を買う。もちろん映画評や映画の広告を見るためだが、少し前の「読売」のコラムが気になった。「アーティゾン」になる前のブリジストン美術館の館長だった島田紀夫氏が、なぜか映画の興行収入について触れていたから。
もともと銀行強盗の映画は好きだ。平均年齢60歳以上というギャング集団が今から5年前に実際に起こした事件をもとにした映画だと知って、『キング・オヴ・シーヴス』を劇場に見に行った。そのうえ、そのボス役がマイケル・ケインなのだから。
毎朝のように夢を見る。時々、ずっと前に出た夢の一部がまた現れることがある。最近、夢で拾ってきた捨て猫に再会した。だいぶ前の夢で、マンションのベランダで泣いていた子猫を部屋に入れたことがあった。
国立映画アーカイブの「中国映画の発展」で沈西苓監督『十字路』(1937)を見た。今回の特集ではほとんどの映画に「隠された政治的メッセージ」を感じたので、日華事変=日中戦争の年の映画だから期待していた。ところがこの作品にはあまり見えなかったが、その分世界の映画との同時代性を感じた。
六本木に用事があり、ついでにサントリー美術館に行った。私にとって六本木は昔から高速道路が真ん中を通る不愉快な街だが、ミッドタウンは六本木ヒルズに比べたらまだ居心地がいい。ある種のヒューマンスケールな温かみを感じる。
2月12日公開のアントワーヌ・ランボー監督『私は確信する』を試写で見た。フランスで実際に起きたある妻の失踪事件をもとに組み立てた裁判劇だが、これがなかなか楽しめる。きわめて真面目な裁判劇を娯楽映画と言えるかわからないが、とにかく手に汗を握り最後まで目が離せない。
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