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2009年5月

2009年5月30日 (土)

EUフィルムデーズ

2003年から東京日仏学院などで実施されてきたが、一昨年から何とフィルムセンターで開催されている映画祭だ。EUの各大使館が1本ずつ自国の映画を選ぶので、全体を眺めると映画祭らしい個性はない。逆にいえばそこが面白いと言える。各国の映画に対する姿勢が見えてくるからだ。
例えばフランスはジャン=シャルル・フィトゥッシというかなり個性的な監督を選んでいる。フランス映画祭ではとても上映されないような、尖鋭的手法の監督の映画の未公開作を上映する。似たタイプの監督はポルトガルが選ぶペドロ・コスタ。今回上映の「コロッサル・ユース」は既に劇場公開された映画だが、この傑作はDVDではまず良さはわからないから貴重な上映だ。
イタリアは去年東京国際映画祭で上映されたダニエレ・ルケッティの「マイ・ブラザー」を選んだ。旬の過ぎたルケッティ監督の映画を選ぶくらいなら、今のイタリア映画の実力からしたらいくらでも選ぶものはあるだろうに。イタリア映画祭で満員だった「ゴモラ」をなぜもう一度やらないのか。などと考え始めると、なかなかに楽しめますよ。
http://www.momat.go.jp/FC/EUF2008/Cinema1/2008-05.html

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2009年5月29日 (金)

カンヌ国際映画祭と日本の映画配給会社

昨日の朝日新聞夕刊に深津純子記者によるカンヌ・レポートがあった。世界的な不況が今年のカンヌを覆っていたことがよくわかり、見本市のブースや国際合作に対する日本政府の対応が外国に比べてちぐはぐなことの指摘も鋭かったと思う。1点だけ違うと思うのは、日本の配給会社の買い付け本数が減っていることについてだ。

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2009年5月26日 (火)

夏時間の庭

2度目だが、やはり良かった。オリヴィエ・アサイヤス監督は「冷たい水」や「感傷的な運命」など好きな作品もあるが、多くの作品はちょっと感情表現がエキセントリックで、苦手だった。しかし今回は人が変わったように落ち着いた演出だ。75歳の母の死を受け止める子供たち。もちろん遺産相続という現実的な問題となり、子供たちの意見は割れる。多少考え方は違っても、それぞれの人間的感情は残る。
これはまるで「東京物語」ではないか。この映画には母の死の場面も、葬式も、裁判所の調停も、劇的な場面はほぼ省かれている。部屋の中でささやく家族の声と動き回るキャメラがすべてを物語る。食器の触れ合う音。お手伝いさんのエロイーズが、荷物が運び出されて壊される直前の家を訪れて、何もない部屋を窓ガラスから見るシーンに、この映画の重要なすべてがある。

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「イタリア映画史入門」

昨年出た本だが、ようやく現物を手にした。イタリアの映画史家で有名なジャン・ピエロ・ブルネッタのイタリア映画史入門書だ。イタリアは世界に冠たる映画大国の一つでありながら、その歴史の全容はフランス以上に日本では知られていない部分が多い。この本を読めば、マリオ・カメリーニのように日本ではあまり知られていなかった監督の大きさがわかるというものだ。2002年くらいまでの映画も扱われているので、イタリア映画祭などで知られる監督についても記述があって嬉しい。最近のイタリア映画について書いた本は一冊もないのだから。
気になるのは固有名詞の翻訳だ。例えば127ページに「フランク・カプラ」や「エルネスト・ルビッチ」と出てくるが、それが「キャプラ」であり、「エルンスト」なのは映画ファンなら常識だ。イタリア映画ファン待望の貴重な本であり、5800円+税の高価な本だけにもっと校閲に時間をかけて欲しかったと思う。

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2009年5月24日 (日)

インスタント沼

試写の案内もいただいていたが、題名を見て躊躇していた。
今日ようやく新宿テアトルで見て、実にばかばかしくておもしろかった。麻生久美子も風間杜夫も松坂慶子も、見ているだけでおかしい。石井聡互監督が、麻生の骨董屋で曲がった釘を買う客として現れた時は驚いた。三木聡という監督は、テレビ的、演劇的なばかばかしさをいつの間にか映画的空間に仕立てることのできる不思議な才能を持っている。
新宿テアトルは「連合赤軍」以来だが、地味な日本映画をいつもやっていて好感度が高い。音響や座り心地ではもちろんシネコンに劣るけど。

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バイエル

昨日24日の朝日新聞朝刊文化面「文化特捜隊」で吉田純子記者による音楽教材「バイエル」の話がおもしろかった。バイエルさんという人がいたのですね。どうも日本だけで有名になったらしい。ほかにもこういう日本だけで有名になっちゃった外国人というのがいるような気がする。明治のお雇い外人にはそんな人が多そうだ。法律のボワソナードなどはフランスではまず知られていない。法政大学の新しい高層の校舎は「ボワソナード・タワー」というほどなのに。現代ではフランソワーズ・モレシャンなどがそうかもしれない。
ただバイエルさんのように日本に来たわけではないのに有名になった人は、ほかにいるだろうか。それこそ天国で驚いているだろう。

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2009年5月23日 (土)

ジャ・ジャンクー再び

昨日この監督の「四川のうた」を再見して感動した勢いで、旧作の「プラットホーム」を見に行った。二日連続してユーロスペースに行ったことになる。学生みたいで我ながらおかしい。
「青い稲妻」や「世界」は見ていたが、その前の2000年に作られたこの作品は見ていなかった。結果は予想以上の傑作だった。監督が生まれた汾陽(フェンヤン)が舞台で自叙伝的な要素が強く、いわば青春の痛みをそのまま映像にしたような映画だ。ホウ・シャオシェンの「風櫃の少年」に近いかもしれない。
中国映画と言えば、いまだに陳凱歌や張芸謀の第五世代が有名だが、ジャの感性はホウ・シャオシャエンやエドワード・ヤン、あるいはもっと若手のツァイ・ミンリャンなど台湾の監督たちに近く、極めて繊細で自然だが映画そのものへの洞察に満ちている。
ちなみにこの監督の映画はすべてオフィス北野を中心に日本の会社が製作している。「プラットホーム」のパンフレットには、「一瞬の夢」をベルリン国際映画祭で発表した監督が、ベルリンで当時松竹にいた市山尚三氏に「プラットホーム」の企画書を渡したことから始まったことが書かれている。すぐれた監督を日本のプロデューサーが見出して、日本の資金で映画を撮らせ、世界に羽ばたかせる、これ以上の文化的貢献はないだろう。ジャ・ジャンクーはたぶん世界の5本の指に入る巨匠だ。彼を日本が見出し、4本も長編を作らせていることに日本人はもっと胸を張るべきだろう。

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2009年5月22日 (金)

四川のうた

ジャ・ジャンクーの新作を再度見た。壊されることになった成都の巨大な兵器工場「420工場」の労働者へのインタビューを中心に、グローバリゼーションの進行でかつての共産主義の象徴がなくなってゆくさまを描いた傑作だ。この監督は、資本主義で変貌する中国をリアルでユーモラスに描くことにかけては天才的だが、「長江エレジー」からは、これまでの共産主義中国の遺物を対照させながら、歴史そのものの亀裂を見つめるような映画を撮ってきた。当たり前だが、共産主義も、文化革命も、いいことも悪いこともあった。そこで生きてきた人間の存在だけが、その記憶だけが重要で、政治体制はたいしたことではない、とでも言いたげだ。工場の中やアパートで、無言で立ち尽くす人々、流れる当時の歌、文字で差し込まれる詩。映画は止まった時間を、動かない廃墟を記録する。映画は平面に戻る。もはや演技もアクションもなく、正面を向く人々、窓辺にたたずんで語る男女の言葉、歌、挿入される詩の文字。記憶の断片が舞う。ときおり現れる黒い画面。人が現れるとまるでサイレント映画のように名前や略歴が文字で説明される。最後のシーンに現れるのは「成都」という文字。
素人と俳優を混ぜて起用したフェイク・ドキュメンタリーであることの意味を指摘した評論が多いが、そんなことは大した問題ではない。すべてのドキュメンタリーは、リュミエール兄弟の時代からフィクションなのだから。そういえば、リュミエールの「工場の出口」とそっくりのシーンもあった。もっともこちらは何倍も大きい工場だけど。最初のショットが「工場の入り口」なのも笑わせる。ジャ・ジャンクー監督は確実に映画史を生きている。
それにしても中年の男の思い出話で、高校生の頃別れる恋人が最後に「赤い疑惑」の山口百恵の髪型で現れたエピソードとそこに流れる「赤い疑惑」の歌、そしてイェーツの詩の文字が流れるシーンには泣ける。中国での山口百恵や高倉健の人気の話を聞くのは初めてではないが、本当に驚く。

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2009年5月21日 (木)

外国人男と結婚する日本人女

斎藤美奈子が数年前に出した「物は言いよう」という本を偶然パラパラめくっていて、「出羽おば」という表現に笑ってしまった。かつて「アメリカでは」「フランスでは」と外国の例を挙げて日本の何かを非難することを「でわのかみ(出羽の守)」と呼んで馬鹿にしたが、最近は国際結婚をした日本人女性が高みに立って日本人批判の本を書く例が増えており、斎藤美奈子は「出羽おば」と名づける。クライン孝子、ハロラン芙美子、マークス寿子、川口マーン恵美などのことである。彼女たちのトンデモ本を読むと、その勘違いぶりに怒りを通り越しておかしくなる。かつて川口某が週刊文春に長文を3回連載した時は、まじめに続けて欲しいと思ったくらいだ。おおかた2、30年ほど前に留学して運よく外国の裕福な男と結婚して楽な暮らしをしている女性が、たまに帰国して「日本人はけしからん」とでも思ったのだろうか。まあ、そういう女に叱られたい日本人がたくさんいるから本が出るのだろうけど。
最近、日本に数年住むフランス人女性に「日本に住んで日本人女性と結婚している外国人男性はおおむねバカが多い。女性のほうは、男性に比べるとマシだが、まあ日本ではあまり通用しないタイプよね」と言われてハタと納得した。確かに国内で外国人男と歩いている日本人女は、あまり知り合いになりたくないタイプが多い。
ところで日本人男と外国人女のカップルは外国人がアジア出身の場合がほとんどだ。なぜなのか。伝統的な国際的ランク意識の通念(つまり欧米→日本→アジア)に従って女は流れるという気もするが、欧米で黒人男+白人女の組み合わせは見るが、逆はあまり見ない。国際的ランクと同時に、性的ランク(の通念)というのもありそうな気がする。まあ本人たちがよければいい話なので、外からとやかく言うのは野暮ではあるが。

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2009年5月20日 (水)

駐日アメリカ大使

朝刊各紙はオバマ大統領が駐日大使にジョン・ルース氏に決定したことを報じているが、ちょっと待ってほしい。だいぶ前にジョセフ・ナイ氏に内定という記事を朝日がスクープで出し、他紙が追いかけたではないか。これは誤報だったのか。ならば訂正記事を出すべきだろう。そもそも早くわかったからといって何の得にもならないことを憶測でスクープと称して出し、後から間違いがわかっても謝らない。こんなことでは新聞は信用できなくなってしまう。
http://www.asahi.com/international/update/0520/TKY200905190426.html

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2009年5月19日 (火)

「山形スクリーム」

8月1日公開の竹中直人監督・出演映画の試写を見た。女子高生4人を主人公にしたコメディーで、そのうえに安っぽいCGがたくさん使われていて最初は「こりゃだめだ」と思っていたが、見ていると次第におもしろくなってきて、最後はなかなか良かった。
よく考えたら、最近CGを使った日本映画でそんな感じのぶっとんだ作品をいくつか見た。「ヤッターマン」と「鴨川ホルモー」だ。「山形スクリーム」はそれらよりもさらにいい。ちょっとうぶで陰のある女の子を演じる成海璃子など女子高生4人がそれぞれに際立った役を演じ、竹中をはじめとして生瀬勝久、由紀さおり、温水洋一、岩松了、六平直政、石橋蓮司などの怪優たちが続々と出てきて、いつの間にかヒューマンタッチの群像劇ができていた。最後の1年後の祭も映画らしい終わり方だ。さすが竹中直人。
製作にフランスのセールス会社セルロイド・ドリームズが参加していた。北野武や是枝裕和、河瀬直美などの映画の世界配給を担当している会社だ。この竹中作品は一見海外向けではないが、セルロイドの実力ならベネチアのコンペくらい押し込むかもしれない。
そういえば都会の女性がド田舎に行って奇想天外な話に巻き込まれると言う話では「鈍獣」が公開中だ。出だしなんかかなり似ているが、こちらは原作の芝居から抜け出しておらず、魅力はあるがちょっと長く感じた。

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キャリーバッグ反対

道を歩いていて、キャリーバッグほど迷惑なものはない。満員の駅で2人分、場合によっては3人分のスペースを取り、他人に当たろうが、靴を傷つけようがおかまいなしだ。それも手に持てないようなスーツケースくらいの大きさなら転がさないと運べないのはわかる。ほとんど50センチ四方でどう見ても手に持てそうな大きさのバッグに棒をつけて転がし、自分の背後でバッグがどこに当たろうが見もしない。どうもああして転がすのがカッコいいとでも思っているふしもある。自分の荷物は自分の身体で運ぶというのが人間の基本のはずだ。自分の義務を放棄し、他人に迷惑をかけているのに気がつかないというパターンの典型だ。
これまでこのことを文章で指摘していたのは、あまり見たことがない。数年前に「週刊文春」で林真理子さんが書いていた記憶がある。それだけで彼女は常識があると思う。もっと新聞などで問題化したらどうだろうか。こんなことを書くと「今の若者は…」と嘆く老人みたいだが。

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2009年5月18日 (月)

アメリカ映画がヨーロッパを描くとき

「天使と悪魔」を見ていて、途中で死んでしまう警部役のイタリア人俳優、ピエルフランチェスコ・ファビアーノが可愛そうだった。彼の本国での人気は大変なもので、毎年東京で開かれる「イタリア映画祭」でもだいたい出演作品がある。ヨーロッパの俳優がアメリカに出るとずいぶんな扱いを受けるのが通例のようだ。
彼はスパイク・リーの「セント・アンナの奇跡」(8月公開)にも出ているが、こちらも途中で死ぬ。この映画にはオメロ・アントヌッティ(タヴィアーニ兄弟の傑作の数々!)やヴァレンティナ・チェルヴィ、ルイジ・ロ・カーショ(「輝ける青春」)などイタリアの名優が次々に脇役で出る。ドイツ人だって、クルスチャン・ベルケルやアレクサンドラ・マリア・ララ(「ヒトラー 最期の12日間」の秘書)など、一流どころが揃っている。そうまでしてアメリカ映画に出たいのかなあと思う。
もっとも「天使と悪魔」のロン・ハワード監督やスパイク・リー監督は、英語を中心にしながらも、イタリア語の部分はイタリア語で、ドイツ語、フランス語も現実のままにしゃべらせる。それだけでもリアリズムを重視するまともな監督たちだとわかる。もちろん映画自体も2本共に見ごたえ十分だ。最近の「ワルキューレ」もそうだが、ハリウッドの場合、ヨーロッパが舞台でももすべてを英語で撮影してしまうことがほとんどで、この2人は実は例外なのだ。イタリアやドイツからきちんと実力のある俳優を選んでいることからもそのまじめさがわかる。

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新宿ピカデリー

新しくなった新宿ピカデリーに「天使と悪魔」を見に行った。フィルムとDLPデジタル上映を選ぶことができたので古くさい自分はフィルムを選んだ。スクリーン6は9階。エレベーターが見当たらないので、チケットを買った3階から何とエスカレーターで9階へ。上映が終わった後にキョロキョロ探したら、案内もなく右の端のほうに1台だけ15人乗りのエレベーターがあった。10スクリーンで最高階は11階なのに、小さめのエレベーターがたった1台。みんなが使ったら大混乱になるから案内の矢印もなし。松竹さん、これは少しでも座席数を取るためのせこい計算ですか?出口でプラチナシート専用エレベーターというのを見つけたが、これとの差別化で通常料金の客はエスカレーターをシコシコ8階も登らせるのか。3階から11階までエスカレーターなんて現代日本の商業施設で聞いた事がない。実際、3階から9階の劇場の席に着くまで5分はゆうにかかった。遅れてバラバラ入ってくる人が多いのもうなづける。
パンフレットは3階の隅の方ででたった1人が売っていた。「天使と悪魔のパンフ」と言うと、ゆっくり後ろの箱を開けて取り出した。これじゃあ、買う人はいないよね。劇場から出た場所に山積みにして大声で売らなくちゃ。大丈夫かな松竹。

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2009年5月17日 (日)

イーストウッド再び

「グラン・トリノ」にはまったせいで、中条省平氏の「クリント・イーストウッド アメリカ映画史を再生する男」(ちくま文庫)を読む。全監督作、出演作をテーマごとにわけて詳細に分析した労作だ。イーストウッドの映画分析のみならず、ジョン・フォードやハワード・ホークス、アンソニー・マンなどと並べながら、彼をアメリカ映画史の中に位置づけようとする試みだ。
「おそらく映画の歴史性もっとも強く意識している監督はゴダールとイーストウッドで、両者が同じ1930年に生まれていることは偶然ではない。それは、映画の黄金時代の最後に少年期を行きながら、自分が映画作りの現場に立ったときには、映画が凋落の時代に入っていたことを意味している。・・・だが、ゴダールほど理論家ではないイーストウッドは、ゴダールのように言葉で映画の歴史性を語ることはない。その代わり、自分の映画のなかで、映画の歴史性、とくにアメリカ映画の歴史を自分なりに再構築していった」
日本には短い映画評やエッセーばかりで、こうしたきちんとした監督論が少なすぎる。

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2009年5月16日 (土)

東京都写真美術館

恵比寿の東京写真都美術館に「東方へ 19世紀写真術の旅」と「プレス・カメラマン・ストーリー」の内覧会に行く。所蔵作品による「東方へ」の外国人が捉えた明治の日本の写真には無限の魅力がある。箱根の町が何と素朴な旅情に満ちていることか。同時に展示してあるイタリアのコモ湖の写真と比べると、日本がいかに変わってしまったかがよくわかる。「プレス…」は朝日新聞社のカメラマンが撮った昭和の報道写真展だが、有名なシンガポール陥落時の山下・パーシバル会談の決定的瞬間を撮影した影山光洋の写真などよりも、戦時中の中国の日常や、戦後の国内の混乱を映した写真などの方に時代の刻印を感じて見入ってしまった。
日本は開国してたった150年の間に、何と変わってしまったことか。「東方へ」は7月12日まで、「プレス…」は7月5日まで開催されている。
東京都写真美術館は、一時期は貸館をしたり仏像展をやったりして混迷していたが、ここ数年は魅力的な企画が増えたように思う。所蔵作品をきちんとテーマを立てて見せているのがいい。絵画に比べて一点の作品の購入値段が安いため、この美術館は1990年代にできた新しい美術館にもかかわらず、2万点以上の所蔵がある。これを少しずつ見せるだけでいい。写真の場合、古いだけでおもしろい部分があるから。

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2009年5月13日 (水)

「グラン・トリノ」再び

昨晩、また「グラン・トリノ」を見てしまった。前回は有楽町マリオンのピカデリーだったが、今度はバルト新宿。148席のバルト3での上映だったが、スクリーンが大きく、段差がついていて、音がいい。当たる映画なら何でもやるシネコンは嫌いと言いたいところだが、これほど上映条件がいいとは。
で、「グラン・トリノ」だが、2度目に見ると西部劇のような伝統的なアメリカ映画の構造が見えてくる。主人公は流れ者ではないが、移民だらけになった地区でほとんどただ一人の白人として、星条旗を掲げ、人種差別的な発言を吐く。もともと朝鮮戦争の英雄で何人ものアジア人を殺した過去を持つうえ、その後フォードで50年も勤めたというアメリカ人の見本のような男だ。その男が、隣のモン族の一家と仲良くなる。とりわけその息子タオには、大工仕事を教えるほど親しくなり、「自分の息子たちよりも彼らの方が安心するとは」ともらすほどだ。その一家をいじめるギャング集団に対して男は一人で立ち向かう。そうしてその一家を救う。ギャングたちはあくまで悪で、人間的な深みはいっさい与えていない。最近のアメリカ映画には許されないほどの簡略化だが、それゆえにかつての西部劇のように痛快だ。
もともとイーストウッドはマカロニ・ウエスタンという西部劇のあだ花から出てきた俳優だ。彼が監督になって作った歩んだ道は、西部劇を模倣しながらもそれができない状況を映画にしてゆくという過程だった。そうして89歳になってなお、現代アメリカを舞台に自らの肉体を使って遮二無二西部劇を再現する。その真摯さと滑稽さが胸を打つ。
終わりに湖のそばを走る車のシーンに流れる「グラン・トリノ」という歌を、いつまでも口ずさみたい気分になった。
多くの監督は年を取ると、その才能に陰りが見えてくる。ベルトルッチだって、ホウ・シャオシェンだって、アンゲロプロスだってヴェンダースだってかつてはあれほどおもしろかったのに、最近の作品はいつも期待はずれだ。その中で最近のイーストウッドの展開ぶりは驚異的とさえ言えるだろう。

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2009年5月10日 (日)

老舗を信じない

先日ある方の招待で飯倉の「キャンティ」に初めて行った。かつて芸能人が通いつめたという、いわずと知れた伝説のイタリア料理店だ。夕べは楽しかったが、料理も店内の雰囲気も20年前の日本式イタリア料理で、値段はべらぼうに高かった。誰がいまどき何種類もの作り置きの前菜を取り分けられて嬉しいだろうか。味の方はひょっとしたら数日前に料理したのではと思うほどひどかった。有名なバジリコ・スパゲッティは、妙に和風で麺はやわらかすぎ、2000円を越すものとは信じがたかった。5000円を越すミラノ風カツレツは、薄くてあまり肉の味がしなかった。正直に言って、自分の作るイタリア料理の方がまだうまいと思った。
昔、早稲田大学前の蕎麦屋で、大隈重信が通ったというところがあったが、店員は横柄で蕎麦はたいしたことはなかった。神楽坂で、森鴎外などが通った田原屋という洋食屋が10年くらい前まであったが、ここは恐ろしく食材が古く、カキフライは食べられなかった。
どうも老舗と言うのは信用できない気がする。この20年、日本人は世界中に料理を勉強に行き、その成果をさまざまな店で展開している。日本料理もおいしい店がどんどん増えている。老舗の店は名前に甘えて、そういう努力を怠っているのかもしれない。

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2009年5月 8日 (金)

「バーダー・マインホフ 理想の果てに」

ドイツ赤軍を扱った、今夏公開予定のドイツ映画を見た。今年のアカデミー賞外国語映画賞部門で6本の最終ノミネートに残った作品だ。1960年代からの学生運動が70年代にテロ活動に変わり、社会を大きな不安に陥れた現象がドイツにもあったんだ、というのが最初の感想だ。日本の「実録 連合赤軍」やイタリアの「夜よこんにちは」「輝ける青春」など、最近はこの時代を扱った映画が多い。しかしドイツ赤軍については、イタリアの赤い旅団ほどにも知らなかった。
映画は史実に正確に、ジャーナリスト出身の女性、マインホフと活動家のバーダーが出会い、次第にテロ活動に従事し、投獄されて死ぬまでを描く。フィクションを加えることをしていないため、時にテロが残酷すぎたり、主人公たちが物語の真ん中近くで投獄されたまま話が続いたり、映画として劇的な構成に欠けることはあるかもしれない。しかしその分をニュース映像などで補い、最後まで緊張感のある画面を生み出している。特に学生たちの集会やデモのシーンなど、何千人というエキストラを使った場面は迫力に満ちている。
脚本、製作はベルント・アイヒンガーで、「ヒトラー 最期の12日間」と全く同じ。現代人が何を見たいか、どう料理したらいいかを正確に知っている、相当センスのいい映画人に違いない。監督よりプロデューサーの映画と言うべきだろう。
俳優たちが良かった。特にマルティナ・ゲデックが素晴らしい。「素粒子」の時もそうだったが、この女優は、知的な女性が苦しんで壊れてゆくさまを演じたらドイツ一だろう。もちろんモーリッツ・ブライトロイは直情的で神経質だが憎めない役柄がぴったりだ。ほかにも「ヒトラー」のアレクサンドラ・マリア・ララや「4分間のピアニスト」のハンナ・ヘルツシュプルンクなど、これまでいろいろなドイツ映画で見た若手俳優たちが、脇役、端役で多数登場している。そういえばブルーノ・ガンツは穏健派の警察庁長官だが、その手下を「ヒトラー」のお抱え建築家シュペア役のハイノ・フェルヒが演じていると、まるで「ヒトラー」の一シーンみたいでおかしいが。
いずれにしてもアカデミー賞を取ってしまった「おくりびと」より何倍もおもしろい映画だ。日本の左翼と違って内ゲバがないのも興味深い。全共闘世代が見たらどう思うか、ぜひ知りたい。

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2009年5月 6日 (水)

「グラン・トリノ」

イーストウッドが自らの身体を賭けて撮ったような、痛々しくも気持ちのいい映画。
あえて保守的で差別的な頑固じじいを演じながら、最後に取った手段は極めて高貴な非暴力主義だ。自らを犠牲にして正しい人たちを守る、その生き方をイーストウッドは自分で演じてみせた。わかりやすくて感動するという最近稀なハリウッド映画だろう。
800円のパンフレットがよくできている。まるでイーストウッド小事典だ。さすがに松竹で、「チェンジリング」のパンフを作った東宝に比べて、映画への愛が感じられる。

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2009年5月 5日 (火)

「ロスコ展」など

昨日は「アーティスト・ファイル2009」展と「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子供たち」を乃木坂の国立新美術館で見た後、近くのサントリー美術館で「まぼろしの薩摩切子」展を見る。今日は小雨の中、佐倉の川村記念美術館で「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展を見た。
「アートティスト・ファイル」はレベルの低い作家が多かった去年よりはずっと粒が揃っていたが、突出した作家がいない。ある程度おもしろい作品が広い空間にきれいに並ぶさまに、なにかしらいらだたしさを感じた。日本の現代美術を取り巻く安易さがそこにあるような気がした。なかでは齋藤芽生の怨念を込めた細密画のような絵画がもっともおもしろかった。
「ルーヴル展」は内覧会に次いで2度目だが、とにかく人が多い。小さな彫刻は見るのも大変だ。子供というテーマをさらにサブテーマに分けたよく考えられた展覧会だが、これだけ人が入る大型展だと単純に時代別や地域別に見せてくれた方がわかりやすいかもしれない。作品ももっと少なくてもいいと思った。それにしても、ティントレットの聖母子像は何度見てもいい。衣服の濃い赤や青い空の組み合わせの鮮烈さは忘れがたい。
「薩摩切子」展は、最新の照明を誇るサントリー美術館にピッタリの企画だ。暗い空間の中で細かい細工にひとつひとつ照明があてられてきらめく。正直言うと、江戸切子は知っていたが、江戸末期から明治初期に薩摩でこれほどの切子が作られていた事実自体を知らなかった。ガラス作品を大量に所蔵するサントリー美術館だけに、日本中から作品が集まってきていた。
そして、ロスコ展。広い部屋にシーグラム壁画が並ぶ。ロンドンのテート・ギャラリーとワシントンのナショナル・ギャラリーと川村の3つの美術館から揃った15点。赤が黒になり、また赤に変わる色彩の魔術に取り込まれそうだ。高い天井の薄暗い空間に濃密な空気が漂っている。これだけ一度に並ぶ機会はもうないだろう。もともとロンドンのテートで開催されたものが川村に巡回したという。サントリーと同じく、欧米にも望まれる作品を持つ美術館だからこそなし得る芸当だ。佐倉は都心からは遠いが、今年一番の見るべき展覧会だろう。
サントリーも川村も私立の美術館だ。2年前にできた国立新美術館の特徴は、所蔵作品がないことだという。その結果、学芸員が趣味のように現代美術を並べたり、マスコミに会場を貸して、マスコミは海外から「○○美術館展」を持ってくる。何十万人という入場者のチケット代の大半は、数億円の借用料としてルーヴル美術館などの改装費用に当てられる。どこか間違っていませんか。

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2009年5月 3日 (日)

ジャン・コクトー

コクトーの映画は、実はおもしろかったことがない。「詩人の血」はシュルレアリスム色が強いけど、それ以上のものではない。戦後の「オルフェ」や「美女と野獣」も、コクトー的なシンボルを楽しむのはいいけれど、今の目から見ておもしろいかとなると、かなりきつい。
「ジャン・コクトー 嘘と真実」というDVDを見て、少し納得した。ゴダールいわく「フランスには文学や演劇から映画に乗り込んで不思議な役割を果たした4人組がいる。パニョル、ギトリ、デュラス、コクトー」。こんなことはフランスでしかない現象だと言う。
フランスは文学や演劇の伝統が強すぎるため、映画への評価も簡単ではないようだ。

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インフルエンザ

経済危機の中の新種のインフルエンザの流行に、終末的な雰囲気を感じるのは私だけだろうか。これで人はだんだん家から出られなくなり、消費は停滞し、経済危機はさらに進むだろう。
どうも1995年の関西大地震やオウム事件以来、2001年の9.11もそうだが、大きな事件がすべて人類の終末へ向けて着々と配置されるシンボルに見えてしょうがない。このような見方をするのは、単に自分が年を取ったからだろうか。

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2009年5月 1日 (金)

イタリア映画祭2009

イタリア映画祭が始まった。今年で9回目。平日の昼間なのにほぼ満員だ。
「よせよせ、ジョニー」「運命に逆らったシチリアの少女」「見わたす限り人生」を見て、どれもそれなりにおもしろかった。特に「運命に…」は、マフィアの抗争に立ち向かう実在の少女の話を映画化したものだが、主演した少女がいつのまにか本物に見えた。同じようなテーマでも「ペッピーノの百歩」をリアリズムの点で上回るかもしれない。
かつて自分が係わっていた映画祭ではあるが、まともな鑑賞眼を持った人間が責任を持って選べば、いい映画祭をやるのは簡単だとあらためて思う。日本ではそうでない映画祭が多すぎる。

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