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2009年6月

2009年6月30日 (火)

『ちゃんと伝える』

8月22日からシネカノン有楽町1丁目ほかで公開される園子温監督の新作の試写を見た。実は、ぴあフィルムフェステバルで20年以上前から有名だったこの監督の映画を見たことがなかった。
初めて見たが、結論から言うと才能に溢れた監督だと思った。だがそれ以上に父親が高校のサッカー部の部長で、私生活でも怖くてしょうがなかったという設定で既に泣けてしまった。私も似たような境遇にあったからだ。そのうえ、自分の父親がある日突然釣りに凝りだしたという設定も私の父と同じだった。私の場合は、父親には「ちゃんと伝える」ことをせず、よそよそしいままに父は他界してしまった。
最初の高橋惠子が寝ているシーンは小津の『晩春』を思わせる力がある。プロローグで見せた部分を、主人公もガンがわかったという事実の露呈と共にもう一度見せる。その時は別のカットで同じシーンが展開される。
計算されつくされたシナリオなのに、大事なところでは若い女性の泣く表情のクローズアップに頼る。若い男女が夜中に商店街を歩くシーンの美しさといったら。園監督は今後、東宝や東映のメジャー映画でも十分にいけるだろう。
今年の日本映画は豊作ではなかろうか。『重力ピエロ』『ガマの油』『インスタント沼』『ウルトラミラクルラブストーリー』『精神』『嗚呼 満蒙開拓団』、これから公開される映画では『山形スクリーム』『のんちゃんのり弁』『蟹工船』『空気人形』などなど、インディペンデント系の豊かさに驚く毎日が続く。

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『正義のゆくえ』

今年67歳のハリソン・フォードが移民局捜査官を演じる群像ドラマの試写を見た。メキシコ、イラン、バングラデシュ、韓国、オーストラリア、南アフリカ、ナイジェリアなどからやってきた人々がグリーンカードや永住権を求めてもがく姿をロスを舞台に描く。いくつもの家族の場面が同時に進行するので最初はとまどうが、しだいにハリソン・フォードを中心にすべてがまとまってゆく。
バングラデシュや韓国のエピソードなど胸を打つシーンはあるが、手際の良い群像劇でアメリカの正義を押し付けられた気がしなくもない。永住権の授与式で各国から来た人々がアメリカ人になれて感動するシーンがクライマックスでは、なぜこんなにアメリカにあこがれて世界中からやってくるのだろうか、なぜアメリカ人になりたいのだろうかと思ってしまった。日本では貧困が話題だが、そのためにアメリカに行こうと言う人はまずいない。そういう意味でこの映画は、日本人が多民族国家アメリカや世界の現状を知るのに役立つと思う。全米で韓国系が108万人いて80万人の日系より多いことなどはプレス・シートを見て知った。
ハリソン・フォードはいくつになっても正義の象徴のような存在なのも、ちょっとありきたりだ。彼がもう少し踏み外したりするともっとおもしろいだろう。
もっとありきたりなのは邦題「正義のゆくえ」。原題はCrossing over。境界を越えてとかの意味だろう。最近の映画には「~のゆくえ」や「~の行方」の題名が多すぎないか。「青空のゆくえ」「恋のゆくえ」「花のゆくえ」「背信の行方」「真実の行方」「告発の行方」などなど。「正義のゆくえ」という題名で、ハリソン・フォード主演の移民問題を扱った社会派ドラマと聞いただけで、ありきたり感が充満してしまうような気がする。
初秋にTOHOシネマズシャンテなどで公開。

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2009年6月29日 (月)

キェシロフスキ

ユーロスペースでクシシュトフ・キェシロフスキ監督の大特集が開かれている。彼をめぐるドキュメンタリーの『スティル・アライヴ』を見たついでにDVDで久しぶりにいくつか見ると、同時代的に追っていたときにはわからなかったことが見えてきた。

続きを読む "キェシロフスキ"

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2009年6月26日 (金)

『それでも恋するバルセロナ』

夕刊の広告を見ていて、明日公開のウディ・アレンの新作が丸の内ピカデリーのチェーンを中心に、新宿ピカデリーなどのシネコンに加えて、文化村ル・シネマでも上映するのには驚いた。ウディ・アレンといえばかつては単館専門だったのにチェーンでやるのかということがびっくりだし、それ以上にアート系でほかではやらないものをやってきたル・シネマもチェーンと一緒にやることにも軽い衝撃を受けた。最近アート系の映画が当たらないから、映画館の個性をなくしてでもチェーンと組むのだろうか。
映画はおもしろいです。何と言ってもハビエル・バルデムとペネロペ・クルスのアメリカ的ではない、スペイン土着の演技がいい。都会のインテリのおかしさを描いてきたウディ・アレンの新境地だろう。これでナレーションがなかったら、昔のイタリア喜劇映画みたいに即興的でもっとおもしろいかもしれない。アレンはイーストウッドと同じく、老齢に及んでさらに新しい境地に達したようだ。アメリカ映画恐るべし。
原題は"Vicky Christina Barcelona"という登場人物2名の後に都市名を並べたものだが、妙に語呂が良くておかしい。邦題もその不思議なおかしさは少しだけ受け継いでいる。

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日本が一番面白かった頃

「週刊文春」に科学者の福岡伸一氏が毎週絶妙なコラムを書いているが、最新号の文章は「80年代終わりから90年代の初めにかけて、つまり日本が一番、面白かった頃」という書き出しだ。「面白かった」というのはどういう意味なのだろうかとふと考えた。
ジュリアナでボディコン娘が扇を振って踊っていたことなのか、マネーゲームで怪しげなバブル紳士があちこちにいたことなのか、現代美術が急にファッションのように流行っていたことなのか、ミニシアターがブームでみんながエリック・ロメールの新作を楽しみにしていたことなのか、ニューアカブームで浅田彰がベストセラーだったことなのか、あるいはクリスマスに彼女を高級ホテルの夕食に誘い、そのままお泊りをしてしまうことが憧れのように語られたことなのか。
こうやって並べてみると、確かに「面白かった」ような気もしてきた。

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岡島尚志さんのFIAF会長就任を祝う会

先日新聞などで報道された通り、京橋のフィルムセンター主幹の岡島氏が国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)の会長に選出され、昨晩はそのお祝いの会があった。祝辞で黒澤組の野上照代さんが、『羅生門』の復元について語り、長年日本の映画を海外に広めてきたドナルド・リチーさんが乾杯の音頭を取るなど華やかなものだった。『カムイ外伝』の完成披露試写を終えたばかりの崔洋一監督も途中で挨拶をした。ほかにも石井聡互、篠崎誠、羽田澄子、松本俊夫、かわなかのぶひろらさまざまな作り手たちの顔もあった。
そういった華やかな顔ぶれと共に、会場にはフィルムセンターや(今はなき)ヘラルド映画、ユーロスペース、イメージフォーラム、ぴあ、川崎市市民ミュージアムなどのOBを含む懐かしいメンバーが勢ぞろいし、さながら同窓会の観があった。「こういう風に、映画界にいて本当の映画好きが集まる機会はもうない」と言っている人がいた。
帰りに配られた岡島さんの文章から。「なぜなら、映画はそこに放置して自動的に次世代に継承されるものでは決してないからです。映画を芸術として、また歴史資料として保存し、あるいは国と世界の宝として守護し、そしてそれらが広く利用活用される環境を整備するには、映画の作り手はもちろん、映画にかかわるあらゆる方々からのフィルムアーカイブに対する理解と協力、さらにはそうした声に応えることのできる持続的な人的・経済的支援を必須として含む堅固な文化インフラの構築が欠かせません。そのためにはフィルム・アーカイブの仕事が、長期的に見て映画作家や著作権者の利益となるのみならず、映画人の業績と誇りを守るきわめて有意義な事業であること、さらには国や民族のアイデンティティにかかわる重要な文化戦略的投資でもあることが、社会全体から認知される必要があるでしょう。」

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2009年6月24日 (水)

「ルネ・ラリック展」

国立新美術館のラリック展のオープニングに出かけた。
ラリックはガレなどのアール・ヌーヴォーの後に現れて、アール・デコといういささか大仰なガラス細工をはやらせた人だと何となく思っていたが、大間違いだった。1900年前後にラリックが手がけたアール・ヌーヴォーのジュエリー類の繊細さといったらない。ガレがガラスでやったことをもっと小さなジュエリーで表現したのが、ラリックだった。とりわけ、ポルトガルのグルベンキアン財団から出品されたものが圧巻だ。
当時の衣装や、化粧瓶、自動車(車の先っぽのガラス製のカーマスコット!)まで展示されていて、時代の雰囲気が浮かび上がる。人間の贅沢には限りがないとつくづく思う。
全体を通じて見られる光の追求に、リュミエール兄弟や、1920年代のジャン・エプスタンの映画などを思い浮かべた。文明のひとつの頂点だ。

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2009年6月23日 (火)

『嗚呼 満蒙開拓団』

岩波ホールで、羽田澄子監督のドキュメンタリーを見る。見る前は、いまさら第二次世界大戦の告発モノかとも思ったが、やはり見てよかった。
何より、かつての開拓団にいた人々を訪ねて全国を旅し、中国にまで同行する監督本人の姿勢がいい。調べたら監督本人が83歳の高齢なのに、どこか少女のような顔をして、「そうなの」と話を聞く。もういまさら語りたくない人も多かっただろうに。国を挙げた運動に乗せられて満州に渡った開拓民が、敗戦となると軍人や役人が我先に帰国する中、汽車にも乗せてもらえない。1ヶ月をかけて山の中を歩くなかで、半数が死んでゆく。
方正地区に建てられた開拓団の墓地は、中国政府が建てたもの。日本政府は今に至るまで責任を取らない。
戦争中の忌まわしい事実について語る人々が、まだまだこんなにいる。声なき声は探せば無限に湧いてくる。
かつて日本人が集まっている方正地区をめざして1ヶ月の逃避行をした人が、中国を訪問し、当時渡った川の前に立つ。「僕の妹はここを渡る途中に流された」。
そういえば最近、似たような場面をアメリカ映画で見た。飯田橋の名画座で見たエドワード・ズウィック監督の『ディファイアンス』で、ナチスから逃げてパルチザンとして終結する人々が、川を渡るシーンだ。考えてみれば、ほとんど同じ頃の話で、どちらも戦時中に国家から見捨てられた人々が放浪する物語だ。

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松本俊夫『映像の発見』

1963年に出た伝説的な本で学生の頃は古本屋でよく目にしたが、いつの間にか見なくなった本だ。最近復刊が出ているのを見て買ってみた。一読してその内容が今でも通用することに驚く。アラン・レネの『24時間の情事』は日本で全く受けず、公開は初日から4日間で終わったという話を聞いていたが、ここまで深く理解している日本人がいたのだと知って妙に嬉しかった。わかる人はいつの時代にもいるという当然のことだけれども。
花田清輝の映画論集の刊行といい、こうした本を出す清流出版はすごいし、高崎俊夫という編集者の功績は大きい。あらゆる分野で劣化現象が進行中の日本だが、時代に抗するまともな動きもいろいろなジャンルにあるのだろうと思う。

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2009年6月22日 (月)

書店の返本率

今朝の朝日新聞で、書店からの返本率が4割ということを知り、改めて驚く。
腐らない商品であるにも係わらず、書店にはリスクはない。時期が着たら取次会社のトラックが無料で持って行ってくれる。使われる紙や輸送のガソリンなどを考えると、気が遠くなる。リスクがなければ送られてきた本を並べるだけで、個性的な書店もなくなるだろう。
記事はこうした流れを変えて行こうという動きが出てきたことについて触れていたが、ほんの小さな流れにしかならないように思われる。
何はなくとも本。出版界も、当たる映画だけをやるシネコンが8割を占める映画興行のようになってきたような気がする。村上春樹の新作のメガヒットを見るにつけても、そう思う。

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2009年6月21日 (日)

外務省に英文の広報誌が必要か

今日の読売新聞の一面と(二面)に、山崎正和が外務省は英文の広報誌を持つべきだと書いている。一読してその時代錯誤に驚いた。いったいそんなものを今どき誰が読むのだろうか。
最近はやりのソフトパワーとは軍事ではなく文化の力であり、見せかけの海外広報ではなく、文化的力の構築である。海外に何を伝えるかではなく、日本の文化的なシステムをもっと強化することの方が先だ。
まずは国立の美術館や劇場がほかの先進国に比べて格段に見劣りがする現状をどうにかした方がいいだろう。日本の文化施設が充実することは、国民の生活を豊かにすると同時に、外国に対する最大の宣伝になる。
最近は日本への旅行者が増えている。しかし、東京国立博物館や東京国立近代美術館に行けば、その小ささや貧弱さに驚くだろう。パリやニューヨークの美術館を訪ねた人には、この意味がすぐにわかると思う。
国立館の企画展が、新聞社やテレビ局の共催なしにはほぼ成り立たないとは何と情けないことだろう。あるいは海外で話題の草間弥生や村上隆の作品を見たくても、すぐにまとまって見られるところは日本にはない。
英文の広報誌で日本はいい国だと伝えたり、一時的に歌舞伎の海外公演を企画するような外向けの顔を作っても、そんなものは誰も本気で信じはしない。
山崎は昔から外務省の片棒を担ぐような文章が多かったが、これもそうだとしたら、外務省はこの英文誌の予算要求をしているのかもしれない。
そもそも外務省は、現在必要なのだろうか。かつて人々の行き来が自由にできず情報手段も限られていた頃、外務省は国家の意思を外国に伝える代理人として重要な役割を果たしていた。しかしこれだけ人々が毎日飛行機に乗りインターネットを使う時代に、外交官は本当に必要だろうか。日本にいる外国の大使館に勤務する外交官に会うたびに、食事やパーティーや本国からの訪問者のアポ取りだけが外交官の仕事になったのではないかと思うことしきりである。

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「映画監督にドラマの職人続々」という記事

昨日の朝日新聞に、映画監督がテレビから出る時代になった由のことが書かれていた。それ自体は本当だと思う。しかし結論がちょっと短絡過ぎるように思えた。長い文章だが、アサヒコムから結論部分を貼り付ける。
***
テレビでは毎週20本以上の連続ドラマが放送される。ディレクターは演出経験が映画畑の監督に比べて圧倒的に豊富だ。撮影のスピードが速く俳優の扱いも慣れている。評論家の樋口尚文さんは「視聴率が常に念頭に置かれ、視聴者の見たいものをかぎ取る点で鍛えられている」と話す。
 もちろん短所もある。「今のテレビは性と暴力に踏み込むことがタブー。だからディレクターも人間の大きなテーマであるこの領域に不慣れ。従って、彼らの映画は概してテーマがほどよいものに限られ、エキサイティングに広がっていかない」(樋口さん)
 映画が得意とする性や暴力表現をダイナミックに見せる人材が出て来た時、テレビディレクターの映画進出は不可逆の流れになる。(石飛徳樹、大室一也)
***
性や暴力を表現できたらテレビディレクターはまともな映画を作れるのか。今上映中の映画で言えば、「ガマの油」も「ウルトラミラクルラブストーリー」も性も暴力もないが、明らかに映画的としかいいようのない表現であふれている。それは「ハゲタカ」や「MW-ムウ-」(7月公開)などのテレビ的映画とは明らかに演出の質が違う。それは何か。人のアップを中心に言葉でわかりやすく物語を進めるのがテレビだとすると、映画は闇の中の小さな光や遠くの小さな物音まで取り込んで綿密な画面作りをする。違うのは映像の質の繊細さであって、テーマではない。
是枝裕和監督は言うまでもなくテレビ制作会社であるテレビマンユニオンの社員だが、彼の作る映画はテレビとは遠いところにある。「空気人形」で描かれる月島近辺は、これまで誰も見たことがないような不思議な空気に溢れている。この際、テレビ出身かどうかはあまり大きな問題ではないのではないか。
この記者たちには、映画がテレビ的表現に覆われつつあることへの危機感が欠けているように思える。現状を肯定的に考えることから始めようという姿勢はわからないではないが、私にはいささか無邪気な楽観主義に思えてならない。映画館の闇はもっともっと深い。
www.asahi.com/showbiz/tv_radio/TKY200906200091.html

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2009年6月20日 (土)

横浜聡子監督

「ウルトラミラクルラブストーリー」が気に入ったので、横浜聡子監督の前作「ジャーマン+雨」のDVDを見た。「ウルトラ」で松山ケンイチが演じる青年の幼児的狂気を体現しているのは、何と若い女性の野嵜好美。「ゴリラーマン」というあだ名をつけられて、歌手になりたいだの、子供が欲しいだの言いたい放題だ。子供たちと異様に波長が合うのも「ウルトラ」の設定と似ている。とにかく誰もが近づきたくないような女性を主人公にした設定が、すべてを凌駕している。
「ウルトラ」は麻生久美子や松山ケンイチといったスターを使った分、設定はいくらか普通だが、それに映画らしい場面作りが加わって、見ていて気持ちがいい。例えば、松山と麻生が夕陽の中で電話番号を交換し合うシーンに、くるくる回る麻生の赤い自転車。松山は赤いズボンをはいている。あるいは二人が夜歩くシーンの奥に見える花火や提灯、電灯の美しさ。森の中を走る松山を取り巻く光のまばゆさ。
横浜監督の「進化」(「ウルトラ」でも使われる言葉だが)を見て、言いたいことがあれば、映像はひとりでについてくるものだと思った。

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東京の下町

下町という言葉の定義は意外に難しいので置いておくが、東京の古い町並みを撮った映画を2本試写で見た。
緒方明監督の『のんちゃんのり弁』は、墨田区京島のあたりが舞台で、夫がいやになり子供を連れて実家に帰ってきた31歳の女性が主人公。いかにも下町らしい人情味あふれる街で、ストレートに自分の今後の行き方を追求する女性を尾西真奈美が演じていて、気持のいい映画だ。あちこちに庭や緑の植え込みがある一戸建てが並ぶ街を丁寧に撮る笠松則通のキャメラも心地よい。特に岸辺一徳が主人を演じる居酒屋「ととや」のシーンが美しい。日本料理がこれほどおいしそうに見える映画を久しぶりに見た。もちろん「のり弁」もうまそうだ。9月末にスバル座ほか公開。
是枝裕和監督の「空気人形」は、いわゆるビニールのダッチワイフが心を持って動き出すというショッキングな話だが、言葉を一つ一つ覚えてゆく人形を韓国のぺ・ドゥナが演じている。これ以上はないくらいぴったりの役だ。彼女を買った主人が住むのは、佃島の高層マンション群が川向うに立ち並ぶ古い街並みだ。まるで人形が街を発見するように、全く新しい目で下町の情景を繊細にとらえている。小さな花やゴミ置き場さえも美しい。これはどこかで見たことがあるぞという既視感があり、ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』の描く神田や雑司ヶ谷が思い出された。俳優が韓国人だからこういう視点になったのかと思っていたが、家に帰ってチラシをみると撮影監督はホウ・シャオシェンと同じリー・ピンビンだったことに気がついた。こちらは秋にシネマライズなどで公開だ。
二つの映画はもちろん演出もすばらしいが、下町の美しさの表現は笠松とリーという2人の撮影監督の力量によるところが大きい。映画は街を再発見し、東京の今後の街づくりについて改めて考える機会を与えることもあるのだと思った。
ちなみに英語のdowntownは繁華街とか中心街の意味で、「下町」とは全く違うので要注意。old townとかold streetsとかだと、だいだい伝わります。

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2009年6月17日 (水)

「大いなる幻影」

ジャン・ルノワールの「大いなる幻影」を500円DVDで久しぶりに見て、いろいろ考えた。
一つは先日このブログで触れた島尾敏雄のことで、ジャン・ギャバンは分かれ際にお世話になったディタ・パルロに「戦争が終わったら迎えに行くから、パリで一緒に住もう」と行って立ち去る。島尾敏雄はその言葉通りを実行し、さらにそれを小説に書いて公開した。考えたらすごい話だ。
もう一つはこの映画に対しての反応だ。調べてみると、ルノワールの最も有名な作品のせいか、映画好きは敢えて距離をとる。フランソワ・トリュフォーは、「この映画はおそらくルノワールのフランスでの映画のなかで最も“気狂いじみて”いない作品だろう」と書いた。その何十年後かに蓮實重彦は「抽象的な記号としてのルノワール、それは人類愛でもヒューマニズムでもかまわない。いずれにせい、ルノワールならずとも誰もがたやすく口にしうる言葉だ。おそらく「大いなる幻影」は、こうした言葉をいかにも安易に引き出してしまいうるだけ、ルノワールの催淫性が欠如した作品だというべきだろう」と書く。いかにもフランス的なスノビズムだが、ピエール・フレネーが笛を持って建物の屋根に上がり、一方ジャン・ギャバンたちが逃げる準備をするシーンは誰が見てもおもしろいと思う。
それからもう一つ。この映画ではドイツ人はドイツ語を、フランス人はフランス語を話す。英語のシーンもある。ジャン・ギャバンがフランス語しか話せないことがこの映画では重要な役割を果たすほどだ。フランス映画は言語にこだわったものが多い。最近8月公開の「トランスポーター3 アンリミティッド」の試写を見たが、こんな娯楽作でもフランス人同士はフランス語を話す。もちろん主人公はジェイスン・ステイサムで大半は英語などだけれど。こうした言語へのリスペクトは、アメリカ映画では極めて珍しい。「天使と悪魔」ではローマのシーンはイタリア語、バチカンを守るスイスの傭兵はドイツ語などきちんと使い分けられている。ロン・ハワードはやはりそういう監督だ。8月公開の「セント・アンナの奇跡」もそうだ。なんとイタリア人俳優にトスカーナ方言まで使わせている。Do the right thingという題名の映画を作ったスパイク・リー監督らしい徹底ぶりだ。

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2009年6月15日 (月)

島尾敏雄

偶然本屋で手にした「出発は遂に訪れず」を読む。おそらく25年ぶりくらいだ。南の島で突撃の命令が出ていた特攻隊の隊長に、突如敗戦の知らせが来る話だが、予定された死が宙吊りになり、行き場を失った感覚は、今読んでも新鮮だ。それと村の娘トエへの思いもリアルだ。もちろんその後この小説家の実生活に起こったことを知っている我々としては、実に痛々しい。
恥ずかしいことだが、活字が大きくなっていたので読み気が起きたのは事実。名著はどんどん大きな活字で出して欲しい。

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「精神」

想田和弘監督が精神病患者さんたちを撮ったドキュメンタリーをイメージ・フォーラムで見た。「こらーる岡山」という診療所を舞台にしたものだが、患者さんたちがモザイクなしで出演し、自分の病気や人生を語る。そのぞれぞれがいつのまにか、映画的ないい表情をしている。なかには自分の子供を虐待して死に至らせた経験まで語る女性がいるのだけど。あるいは自分の人生を語りながら少し気取った表現をすると自ら「カットー!」と叫んで笑う男性。なんと魅力な顔だろう。
知らなかったのだが、上映後に監督が現れて、Q&Aがあった。話のうまい、ハンサムな好青年。80時間カメラを回して、2時間15分に編集したと言う。パンフレットを読んで、東大卒と知った。エリートになる道を捨てて、こんな根気の要る、そして気のめいることをやる若者がいるとは、日本も捨てたものではない。

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2009年6月14日 (日)

食べ放題

池袋のシネリーブル池袋で麻生久美子と岡田准一主演の「おとなり」を見た後、ふらりと同じ階を歩いていて、「香港蒸籠」という中華料理の“3000円2時間飲み放題食べ放題”に惹かれて思わず店内に。
いくつかの飲茶はそれなりに美味しかったのだが、チャーハンや野菜炒めなどを食べていると味が濃くてそれ以上に油が強く、1時間もすると食べられなくなってしまった。酒でもたくさん飲もうと思ったが、ビールは普通だったが、紹興酒がなぜか妙な後味があってたくさんは飲めない。結局1時間15分くらいで出てしまった。
そして翌日の朝までずしりと胃にもたれた。別にその店が悪いのではなく、中年の身で食べ放題などにつられてはいけないと深く反省した。その値段では安い食材しか使えないのは当たり前だから。
高校生の時、大勢の同級生たちと「シェーキーズ」でピザの食べ放題に行った。私は22切れも食べて一番だった。その頃と同じと思ってはいけない。

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Tarzan 別冊「太らない食べ方 完全BOOK」

「ターザン」という雑誌は買ったことがなかったけれど、これはおもしろい。ハンバーグ定食より天ぷら定食の方が太らないとか、チキンナゲットの方がフライドポテトより少しましとか、なかなか目からうろこである。
岡田斗司夫の『いつまでもデブと思うなよ』を読んだ時もそうだったが、この種の本は読むとしばらくは気にするので、1カ月後には必ず2キロほど減るものだ。でも時間がたつともとに戻っている。
それにしても揚げ物が一番よくないのだなと痛感。

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2009年6月13日 (土)

「私は死んでいない」

フィルムセンターで開催されている「EUフィルムデーズ」で、ジャン=シャルル・フィトゥッシ監督の新作を見て腰を抜かしそうになった。シンプルでありながら、人生の真髄に触れてくる不思議な映画だ。例えばローマで少年が出会うドイツの老人との会話。少年がカフェに入って、エスプレッソを注文すると、横から音楽が聞こえてくる。カメラはするすると横に移動し、チェンバロを弾く女をとらえる。
せっかく出会った女がいなくなってしまい、途方に暮れる男。その男のいとこは、子供と共に逃げた妻を思い続ける。その母はみんなに囲まれて死ぬ。最後に響くモーツァルトの「レクイエム」。それを聞く女の顔が夕暮れに映るラスト。
登場人物を少なくし、2時間程度の映画を作れば、ちょうどマノエル・デ・オリヴェイラのように愛される作品も作ることができるに違いない。オリヴェイラ、ストローブ=ユイレ、ペドロ・コスタ、パオロ・ベンヴェヌーティといったヨーロッパの唯物論的映画の系譜に、新しい星が加わった。

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「レスラー」

数日前の朝日新聞で沢木耕太郎が絶賛していた映画だ。見てみると、別に傑作とは思わなかったが、確かにミッキー・ロークの熱演とそれ以上に彼がこれまで歩んできた道を考えると胸が熱くなることは事実だ。落ちぶれたレスラーの再起にかける物語と、1980年代にスターだったミッキー・ロークの人生が重なるからだ。
「ハリウッド大通り」を始めとして落ちぶれた映画スターを主人公にした映画は多い。「ハリウッド大通り」が無声映画で活躍し、トーキーの到来とともに消えていったグロリア・スワンソンを起用していたように、こうした映画は演技か実際かわからないような場面を見せてくれる点でいつもおもしろい。
それにしても「レスラー」は痛い。年をとってレスラーとしてお呼びがかからず、スーパーの食材売り場でバイトをし、恋人もできず娘にも嫌われるミッキー・ロークは本当に痛々しい。それと同時に、体にホチキスを打ったり砕いたガラスの上に乗ったり、肉体を傷つけることを見世物にするプロレスという職業をつぶさに見るのは、物理的にもつらい。

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2009年6月12日 (金)

麻生久美子祭り

現在公開中のインディー系映画の秀作3本に麻生久美子が出ている。
「おとなり」ではフランス留学を準備するまじめな花屋の店員を素直なイメージ通りに演じているが、「ウルトラミラクルラブストーリー」では、いささか壊れた感じが出ていて味がある。松山ケンイチ演じる頭の足りない農村青年に愛される、東京から来た幼稚園の先生の役だが、死んだ恋人の思い出を引きずりながらも松山をケアしてゆく不思議なリズムがなかなかいい。
抜群なのは「インスタント沼」。題名からは想像もできないおかしさで、麻生が同じ三木聡監督の「時効警察」で開眼したズッコケ娘を演じていて、最後まで何が起こるかわからない。日本映画の未来はひょっとして麻生久美子にあったりして。それにしても今年も日本映画は豊作なのではないだろうか。

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2009年6月10日 (水)

ユニバーサルDVD

「ユニバーサル・セレクション」と題した1500円DVDにはまってしまった。イーストウッドの「ガントレット」や「ダーティ・ハリー」を買っていたら、メルヴィルの「賭博師ボブ」やコクトーの「オルフェの遺言」も買ってしまい、もはやアマゾン・コムの奴隷と化している。しかし安いからといってそんなに買って、いつ見るのだろうか。
将来DVDがもっと小さくて便利なメディアになった時に(例えば携帯電話に1000本分収容とか)、DVDの山はどうしてくれるのだろうか。本の形はなくならないが、映像の器(支持体)はまだまだ変化しそうだ。あるいはもはやコレクションするのではなく、いつでもオン・デマンドで映像が見られるようになったら、コレクターはどうするのだろうか。

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2009年6月 9日 (火)

「ガマの油」

俳優・役所広司の初監督作品だが、その才能に驚く。撮影監督に栗田豊通を起用しているとはいえ、途中から天才的なショットが続々と出てくる。富士山、過去の追想シーン、自宅プール、花を散りばめた森の中、農村を走るトラックなど、まるで鈴木清順か北野武ばりの鮮烈なイメージの連続だ。
前半、物語構成が少し弱い気もするが、とにかく画面から目が離せない。伊丹十三の「タンポポ」に始まって、黒沢清、原田真人、青山真治、今村昌平、森田芳光といった個性派監督の映画に出演するうちに、自然と学んだのだろうか。この俳優の中にこんなにシュールな発想があるとは、想像もしなかった。とんでもない監督の誕生である。
映画は新宿バルト9で見たが、予告編の前に見せられる映画館PRのCMは、くどくて長くて見ていられない。早く差し替えてください。

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ベネチア・ビエンナーレ

先日の新聞報道で、現代美術の祭典であるベネチア・ビエンナーレが始まり、国別の金獅子賞は米国館のブルース・ナウマンに、個人賞はトビアス・レーベルガー(ドイツ)に決まったという。日本館は南嶌宏がコミッショナーでやなぎみわの個展が開かれたが、例によって無冠だった。
実はベネチア・ビエンナーレで日本人が金獅子賞を取ったことは一度もない。海外の映画祭を始めとして、映画や建築、ファッションなどの分野では日本人が世界の舞台で最高賞を取ることは珍しくなくなったが、美術は全くない。ベネチア・ビエンナーレには国際交流基金を通じて、毎回税金が何千万円も使われているのだから、そろそろ「賞取り」のためにまじめに対策を立てたらどうだろうか。いつまでも「参加することに意義がある」では困る。金獅子賞を取ればその作家の国際価値が上がり、ひいては外国の日本美術全体に対する興味も高まり、日本の美術界が結果として潤う。お金の問題だけではない。日本という国の評価が高まるような、国益に関わる問題なのだ。
国際交流基金は何十年もいったい何をやってきたのか。毎回の反省は生かされないのか。南嶌氏の見解も聞きたいものだ。

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2009年6月 8日 (月)

「Laundry ランドリー」

「重力ピエロ」を気に入ったので、森淳一監督の長編デビュー作「Laundry ランドリー」をビデオを借りて見てみた。窪塚クンと小雪が主演の、社会に適合しない少しだけ変な男女を描いたファンタジーで、窪塚が土手を歩く最初のシーンから気に入ってしまった。結婚式の鳩を飛ばす仕事はどこか養蜂に似ているし、窪塚の不思議な微笑は岡田将生の表情に近い。
この監督は現実とファンタジーの入り混じる境界を、いかにも映画的としかいいようのない場面の連続で見せてくれる。今後、さらに期待できる監督に違いない。

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2009年6月 7日 (日)

世襲

先日、このブログでメリエスのDVDについて書いた後半で、著名な芸術家の遺族が著作権で食っている話を書いた。「週刊朝日」を読んでいたら「親子のカタチ」という欄があって、写真家の細江英公が息子と出ていた。かつて彼の個展に行った時、本人がいてその近くに付き添う男がいたが、その時はてっきり助手だと思っていた。それは彼の息子で、事務所の跡継ぎらしい。
遺族どころか、有名な現存の文化人でその子供がその関係で仕事をしている場合は多い。有名人に頼まれたら、編集者など周りの人たちは断れないだろう。たまたまその号の週刊朝日の特集は「世襲亡国論」で、世襲の政治家を非難しているが、政治家に比べたら、芸術家の跡取りで事務所を継ぐ方がずっと楽だろう。死後も著作権料は入ってくるし。
家族は大事だし、ファミリー・ビジネスをやるのも勝手だが、せめて芸術家は、あまりそれを見せびらかさないで欲しい。

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2009年6月 6日 (土)

「重力ピエロ」

原作は読んでいないが、映画は評判通りおもしろかった。最初のシーンで桜が舞って、どさっと弟が2階から落ちてくるシーンから、こりゃすごいことが始まるぞ、と期待させる。連続放火とグラフィティアートの関係。亡き母と父の出会い。兄は大学院で遺伝子を研究しているが、遺伝子記号が放火事件に結びつき、そこに一人の男が浮かび上がる。
兄が問題の男を訪ねる前の電線の並ぶ夕暮れのショット、ミツバチを育てる父親、殺人を決意した兄が男を突き落とす予定のダムの上に立つところを大胆に動くクレーンで撮ったシーン、すべてが終わって弟はソファに兄は床にコの字に寝ているショット、兄弟で蜂蜜を取り出して舐めるシーン、サーカスでピエロの曲芸を家族4人で見る過去のシーン、そして最後にもう一度2階から落ちてくる春。直接物語に関係のないようなシーンが丁寧に撮影されていて、久々に映画らしい醍醐味を見せてくれた。過去のシーンの挿入が絶妙だ。父母の結婚シーンや母の葬式など、ドラマチックなシーンをあえて省いているのもいい。父に至っては、いつの間にか死んでいるのだから。
新宿バルトで見たが、パンフレットを買う前に中身を見ようとしたら見本が1冊もない。こちらは触ることも許されず、店員がめくるのを眺めさせられた。もともと上映された階に売っておらず、下の階の共通のシネマショップとやらに行かされたのは、新宿ピカデリーと同じ。当然買っている人は全くいなかった。いったい売る気はあるのか。ロケをした仙台の細かい場所や製作の経緯まで細かく載っているいいパンフだけに残念。

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リュミエール

数年前に出た本だが、蓮實重彦の「映画狂人 シネマ事典」を手にして、時間が止まってしまった。1980年代後半、彼が責任編集を務めた雑誌「リュミエール」の巻頭言や映画日記が再録されていたからだ。ユーロスペース、六本木シネヴィヴァン、シネマライズ、ル・シネマとミニシアターが続々とできた80年代半ばに突然現れたこの雑誌を、学生だった私は吸い込まれるように読みふけった。特に彼の巻頭言などは何度も読んだせいで、いまでもいくつかのフレーズを覚えているくらいだ。一度だけ投稿したこともある。筑摩書房から「蓮實さんが気に入ったので」と掲載の連絡をもらった時の興奮は、当時の窓が1つしかないアパートや黒電話と共に忘れないだろう。
自分の原点は、映画評論家・蓮實重彦の登場と、ミニシアター・ブームとニューアカとバブルへ向かう経済状況が重なっていた、どこか楽観的なあの頃にあるのかもしれない。映画を追いかけながら、世界が無限に広がってゆくようなあの不思議な快感といったら。 

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2009年6月 3日 (水)

ジョルジュ・メリエスDVDと著作権

映画誕生初期の魔術師とも言うべきジョルジュ・メリエス(1861-1938)の173作品を集めたDVDボックスが、この3月にアメリカで発売されたが、ようやく入手した。全5枚で、総時間数は13時間を超す。これまでDVDで入手できたのは20作品あまりだったのだから、これは大事件だ。メリエスは500本以上の映画を作ったが、多くが失われた。その後少しずつ発見がされていったが、このボックスには現在見ることの可能なほとんどが網羅されている。これはすごい。リュミエール兄弟を真似てトランプ遊びをする最初の映画から、「人間オーケストラ」(1900)、「月世界旅行」(1902)などの傑作を経て、最後の「ブリション家の旅行」(1913)に至るまで、何でも見ることができる。
同封の小冊子を見ると、作品を提供したフィルム・アーカイヴは、アメリカのジョージ・イーストマン・ハウスや議会図書館、映画アカデミーのほか、英国のBFI、ドイツのミュンヘン映画博物館、オーストリアのアーカイヴ、イタリアからはボローニャやミラノのアーカイヴなどフランス以外の主要なアーカイヴが協力している。メリエスはフランス人なのに何故フランスは協力しないのか。理由はおそらくメリエス家にあるのだろう。子孫たちは自ら作品を集め、何十年も自分たちで上映活動をしてきた。ある時期まではシネマテーク・フランセーズやフランス国立映画センターとも対立していたが、最近はシネマテークに全作品を寄贈したと聞く。ひょっとすると寄贈の条件が、DVD化を認めないことだったのではないだろうか。
小説家でも画家でも本人が亡くなると、遺族が著作権を持つ。マティスもピカソもいまだに著作権が存在し、遺族はその管理をすることで入る著作権料で食っている場合もある。マティスのように大きな存在なら勝手なことは許されないが、メリエスくらいだと、遺族の意のままにしてきた場合が多い。長い間フジタもそうだった。著作権という考えは20世紀になって生まれたが、これを武器に遺族が芸術の正当な評価を妨げる例はあまりにも多い。なんと残念な、そして悲しいことだろう。

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2009年6月 2日 (火)

「子供の情景」

神田神保町の岩波ホールでイラン映画を見た。父親も映画監督とはいえ、わずか19歳でこんな映画が撮れるとは。最初と最初にはさまれるバーミヤンの石仏の爆発シーン。その間に、少女バクタイの小さな物語が展開する。彼女のの娘の緑の服と薄黄色のスカーフと黄色のノートの象徴的なまでの美しさ。
とにかく文字を習いたい、学校に行きたいという意思だけですべてが動く。そこに立ちはたがるのは資本主義。ノートを買うためには卵を売らねばならない。卵は売れず、パンに代えることでようやくノートが手にはいる。しかしノートはタリバーンを真似る少年たちに引きちぎられて紙飛行機となって空を飛んだり、おじいさんが一枚ちぎって舟を作ると川をするすると流れていったり。一冊のノートの象徴的変容。
学校に行くと女の子は入れてくれなかったり、ようやく女子クラスを見つけると場所がなかったり。とうとうタリバーンごっこの男の子たちに頭から紙袋をかぶせられて洞窟に入れられる。そこにはほかの女の子も3人。友達のアッバスもその少年たちにいじめられ、穴に落ちて泥水だらけになる。そして叫ぶ。「自由になりたければ死ぬんだ!」
子供はすべてを見る。世界の真実を見る。ロッセリーニの「ドイツ零年」のように。あるいはキアロスタミの「友だちの家はどこ」のように。

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ココ・シャネル

今週の「週刊朝日」に、今年はココ・シャネルの映画が3本、舞台が2本もあるシャネル・イヤーだと書かれていた。そのうち、シャーリー・マクレーン主演の方の映画を試写で見た。全編フランスが舞台なのに使われているのはすべて英語だし、演出も軽めでちょっとテレビっぽいけれど、シャーリー・マクレーンは見事だった。若い頃の役を演じたバルボラ・ボブローヴァもよかった。鼻がちょっとツンと上がった小さめの顔がいい。彼女自身チェコからイタリアに出てきて苦労してイタリア映画界でのし上がった女優だけに、両親を亡くして修道院に入れられ、そこからファッション界を駆け上ったシャネルを演じるのにぴったりだ。どこかに貧乏の影がある。その友人役のヴァレンティーナ・ルドヴィーニもイタリア映画祭などでおなじみのイタリア人女優だが、大きな目がかわいらしい。
保養地のドーヴィルでジャージー地を使ったスポーティーな服を開発して行ったあたりは実にリアルで見ていて楽しくなるし、戦後の2度目のコレクションで見せられるシャネル・スーツの数々を見ていると、シャネルの天才的なセンスや革新性がよくわかる。この映画は8月に公開。
もうひとつ。シャーリー・マクレーンがタバコをスパスパ吸うシーンがカッコいい。最近こんな場面はもう世の中からなくなったなあ、と思うと感慨深い。

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2009年6月 1日 (月)

天安門事件20年

1989年6月4日、北京の天安門広場に陣取る学生たちの民主化デモに対し、中国政府は武力で制圧した。学生の群れに次々と戦車が進む映像は今も忘れない。自分が会社員になってしばらくして生活が安定した頃で、日本はバブルの真っ最中でもあったから、妙な罪の意識を感じたのを覚えている。
今年はそれから20年。今朝の朝日新聞によれば、デモのリーダーは今も海外で暮らす者も多く、国内に住む者はいまだ公安警察の監視下にあるという。しかし気になったのは、いったい何百人死んだのかという数字がいまだにどこにも公表されていないことだ。当時も死んだ友人や家族を悼む人々の映像は流れたし、ネットで検索すれば戦車につぶされてぺしゃんこになった死体はいくらでも出てくる。死んだ学生の家族に取材していけば、ある程度の実態はわかるのではないか。生き残ったリーダーたちは今やヒーローだが、無名の死者たちを忘れてはならないだろう。

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