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2009年6月29日 (月)

キェシロフスキ

ユーロスペースでクシシュトフ・キェシロフスキ監督の大特集が開かれている。彼をめぐるドキュメンタリーの『スティル・アライヴ』を見たついでにDVDで久しぶりにいくつか見ると、同時代的に追っていたときにはわからなかったことが見えてきた。

第一は、そのスタイルの変貌だ。初期の『工場』(70)などの迫力ある白黒のドキュメンタリー。管理社会への抵抗の姿勢が明白だ。その後劇映画に移るが、ポーランド社会への砂を噛むような絶望感は変わらない。『傷跡』(76)『偶然』(81)やがそうだろう。『終わりなし』(85)あたりから、その絶望的な風景が、不思議な神秘性を持ち始める。そうして『デカローグ』(88)シリーズに及んで、キャメラは自由自在に動き、心象風景を描く。そしてフランスとの合作による『ふたりのベロニカ』と『トリコロール』3部作の華やかな映像美。
彼の名前が国外で知られるようになったのは、88年のカンヌで『デカローグ』5から作られた『殺人に関する短いフィルム』だった。当時は彗星のごとくポーランドから現れた天才に見えた。そしてフランスとの合作を追いかけた。しかし96年に亡くなった彼のキャリアは、88年に国際的に「発見」される前の方がずっと長かったのだ。
去年出た『キェシロフスキ映画の全貌』というポーランド人が書いた本を読んで、彼の後半の合作映画がポーランドの映画批評家の一部からは祖国を裏切った内容として評価が低かったことを知った。晩年の黒澤明の評価が日本で低かったことと同じことなのかどうか。
80年のワレサを中心とした「連帯」という高揚した時期とその後の戒厳令、そして89年の「自由化ショック」。海外資本に向かうしかなかったのだろう。考えるとタルコフスキーも同じような道を歩んだような気がする。言葉が通じない国での撮影による疲労が、彼らの若き死の原因なのだろうか。
『青の愛』で『24時間の情事』のエマニュエル・リヴァが出ていたのにも驚いた。今年の2月に来日した時とほとんど変わらない、クールだが時おり人懐っこい笑いを浮かべ、どこかまだらぼけのような感じがそのままだった。
来日と言えば、キェシロフスキを一度だけ見たことがある。91年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員だった。AZ七日町というメイン会場の階段の踊り場のような場所に置かれたベンチに座って、エスカレーターで乗り降りする人々をいつまでもいつまでも見つめていた。映画監督にサインをもらったのはその時が最初で最後だ。手元にある「デカローグ」の仏語版脚本集の扉には、91年10月10日という日付と私の名前とサインが書かれている。

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