「大いなる幻影」
ジャン・ルノワールの「大いなる幻影」を500円DVDで久しぶりに見て、いろいろ考えた。
一つは先日このブログで触れた島尾敏雄のことで、ジャン・ギャバンは分かれ際にお世話になったディタ・パルロに「戦争が終わったら迎えに行くから、パリで一緒に住もう」と行って立ち去る。島尾敏雄はその言葉通りを実行し、さらにそれを小説に書いて公開した。考えたらすごい話だ。
もう一つはこの映画に対しての反応だ。調べてみると、ルノワールの最も有名な作品のせいか、映画好きは敢えて距離をとる。フランソワ・トリュフォーは、「この映画はおそらくルノワールのフランスでの映画のなかで最も“気狂いじみて”いない作品だろう」と書いた。その何十年後かに蓮實重彦は「抽象的な記号としてのルノワール、それは人類愛でもヒューマニズムでもかまわない。いずれにせい、ルノワールならずとも誰もがたやすく口にしうる言葉だ。おそらく「大いなる幻影」は、こうした言葉をいかにも安易に引き出してしまいうるだけ、ルノワールの催淫性が欠如した作品だというべきだろう」と書く。いかにもフランス的なスノビズムだが、ピエール・フレネーが笛を持って建物の屋根に上がり、一方ジャン・ギャバンたちが逃げる準備をするシーンは誰が見てもおもしろいと思う。
それからもう一つ。この映画ではドイツ人はドイツ語を、フランス人はフランス語を話す。英語のシーンもある。ジャン・ギャバンがフランス語しか話せないことがこの映画では重要な役割を果たすほどだ。フランス映画は言語にこだわったものが多い。最近8月公開の「トランスポーター3 アンリミティッド」の試写を見たが、こんな娯楽作でもフランス人同士はフランス語を話す。もちろん主人公はジェイスン・ステイサムで大半は英語などだけれど。こうした言語へのリスペクトは、アメリカ映画では極めて珍しい。「天使と悪魔」ではローマのシーンはイタリア語、バチカンを守るスイスの傭兵はドイツ語などきちんと使い分けられている。ロン・ハワードはやはりそういう監督だ。8月公開の「セント・アンナの奇跡」もそうだ。なんとイタリア人俳優にトスカーナ方言まで使わせている。Do the right thingという題名の映画を作ったスパイク・リー監督らしい徹底ぶりだ。
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