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2009年7月

2009年7月31日 (金)

ローマのレストランでボラれた日本人

最近新聞ではローマのレストランの昼食で二人で10万円近く払わされた日本人カップルが話題になっている。観光相が謝ってローマに招待するとか、本人たちが「イタリアの税金を使わないでくれ」と断ったとか。

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『プール』

こんな映画を見ると、すぐにでも飛行機に乗ってチェンマイに行きたくなる。とりわけこの暑い東京で狭いアパートに住み、いつも満員の地下鉄に乗っている身には、実にしみる。

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2009年7月30日 (木)

『柔らかい肌』が表紙の映画雑誌

夏の暑い盛りに何を思ったか、だいぶ前にどこかでタダ同然で買ってきた古い映画雑誌の束を整理していたら、トリュフォーの『柔らかい肌』の写真が表紙になった雑誌『映画芸術』があった。

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『わたし出すわ』

まず題名にクラクラっと来た。劇場の予告編で小雪が「そのお金、わたしが出してあげようか」というシーンを見て、すぐにも見たくなった。

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2009年7月29日 (水)

ヱヴァンゲリヲン現象

夏休み前に学生から「先生の感想を聞かせて欲しい」と何度か言われたのが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』。こちらはテレビも漫画もこれまでの劇場版も前作の「序」さえも見ていないのでずいぶん尻込みしていたが、ふっと時間ができたので、もう込んでいないだろうと池袋でこっそり見た。
最初は「しと」と言われても「使徒」とわからなかったくらいだから、今回何が新しいのかさえわからない。ただ見ているとケンジの父との葛藤やレイとの純愛などへ収斂して行くドラマがそれなりにわかっておもしろい。未来的でありながら日本の日常を微視的に描いた映像は時おり美しく楽しい。列車から見る夕日の美しさなどはアニメで初めて見た気がする。女の子の萌えキャラも満載だ。
しかし主人公たちが国家のために戦い、一般の人々は虫けらのように避難するのみで、そのセカイ系的な発想にはちょっと怖くなった。オウム的な世界観に少し近いものがあるし、2年前に赤木智弘が「希望は戦争」と発言したことにもつながっているようにも感じられた。
何よりこの映画がたぶん200万人以上の人が見て、見ていない多くの人にはチンプンカンプンであるという現象がすごい。映画の中にはもちろんこれまでの説明的なものはないし、劇場パンフレットにもない。パンフにある対談は僕のようにわからない人には全くわからない。ましてやパンフの最後にあるグッズの数々にはめまいがする。この溝は埋まらないかもしれない。

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2009年7月28日 (火)

『パリ・オペラ座のすべて』

10月に公開されるフレデリック・ワイズマン監督の最新作の試写を見た。
パリ・オペラ座のバレエ団を撮ったドキュメンタリーで、2時間40分だが長さを感じさせない。
通常こうしたドキュメンタリーは、ダンサーたちのドラマやある舞台ができあがるまでを描くものだが、ワイズマンはいつもの通り、オペラ座の「日常」を淡々と描く。
リハーサルも、本番も、食堂のシーンや内部の会議、個人面談、観客たち、街の風景といったショットに自然につながっている。まるで見ている自分が透明人間になったように、我々はオペラ座のあらゆる場所に出入りし、そこに流れる空気を吸う。ほとんど覗き見に近い。そこにあるのは劇的に見えるものもそうでないものもあえて日常的に並べて行くワイズマンのシニカルな視線だ。
現在上映中の『精神』や『嗚呼 満蒙開拓団』と違って、撮る人やカメラを限りなく意識させない。そういう意味では、ニュース映画を含めた古典的なドキュメンタリーに近いだろう。しかしこの映画にはナレーションさえもない。オペラ座のさまざまな空間と時間の断片がころがっているだけだ。そうしてその断片の山は、人間存在の真実に近づいて行く。
そういえば、数年前にパリでワイズマン監督が演出した舞台『おお麗しの日々』を見た。主人公の女性が何故か次第に腰まで地面に埋まってゆくサミュエル・ベケットの戯曲だ。ベケットの不条理な物語が、ワイズマンの淡々とした無機質な演出にぴったりで、ベケットも古典になったことを感じさせた。

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2009年7月27日 (月)

『情事』

アントニオーニの『情事』をDVDで見た。2001年の「イタリア映画大回顧」で久しぶりに見て、ひどく心を動かされたからだった。しかし小さなDVDの画面では、シチリアの荒涼とした大地に彷徨う男女たちの絶望感はあまり伝わってこなかった。しかし後半に男女2人が愛し合うシーンで、すぐそばを列車が通るシーンなどは実にいい。主演のモニカ・ヴィッティの無機質な表情がぴったりだ。
今回見ていて、終盤の場面がタオルミナのホテル「サン・ドメニコ・パレス」だったことに気がついた。確か2003年に数泊したけれど、モニカ・ヴィッティが友人を探して走る長い廊下のシーンでもしやと思ったが、正面の入り口に続いてホテル名も一瞬写った。このホテルは『グラン・ブルー』で使われたことで有名だが、『情事』の方はどこにも載っていないと思う。こちらの方が特徴ある廊下や、サロン、部屋の中から外の駐車場まで写していて、ホテルの優雅な雰囲気をそのままに伝えている。

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2009年7月26日 (日)

『戦艦ポチョムキン』

『戦艦ポチョムキン』をたぶん25年ぶりに見た。紀伊国屋書店から出ている2005年復元版のDVDだが、見ていて現在公開中の『蟹工船』を思い出した。未来的な空間構成や、迫力はあるけれど妙に間延びしたリズムが似ている。果たしてSABU監督はこれを見ていたかどうか聞きたい気がする。
それにしてもこのDVDは美しい。今でも学生街のビデオ屋においてあるVHS(1949年版)と比べると、映像は違う映画かと思うほどシャープで音楽も断然いい。
この映画は長らく映画史上のベストワンと言われてきた。日本では劇場公開されたのが1960年代だったが、大島渚がかつてテレビで「『戦艦ポチョムキン』なんて題名を聞くだけで頭に血が登るくらい興奮した。ようやく見たら、アレッ、という感じだったけど、当時はそんなこと言えなかったよ」と言っていたのを思い出す。
さてこの復元版で見た時に、現代の観客にもおもしろいのかどうか。監督のエイゼンチュテインが生涯考え続けたモンタージュについては、今見てみると言わずもがなのショットが多く、あまり成功しているとは言い難い。むしろ反乱者たちに幕をかけて殺そうとしたり、上官をどんどん海に落としたり、あるいはオデッサ階段で倒れた子供の顔を人々が踏んで行ったり、乳母車が階段を落ちて行ったりといった、あまり計算されていないシーンの強さに息を飲む。そういう意味ではモンタージュ以上に一つ一つのショットに監督の天才を見てとることができる。
オデッサ階段のシーンで、乳母車を追いかける母親の怒った顔のアップが何度も入るが、ながらくこの写真が代表的なショットとしていろいろな本に使われていた。実はその写真を見て私はこれまで男だと勘違いしていた。これは女性だったのですね。
見終わってDVD付属の資料を見てわかったのだが、この復元版のプレミア上映は2005年のベルリン映画祭で、生演奏付きで上映された。私はその場にいながら、その時は「いまさらポチョムキンでもないだろう」と友人と酒を飲みに行ったことを思い出した。酒を飲みに行って後悔することは本当に多い。

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2009年7月25日 (土)

ピナ・バウシュ

ピナ・バウシュが亡くなってから1ヶ月近くたつが、フランスの週刊誌「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」Nouvel Observateurを読んでいたら、ジンガロのバルタバスによる「美しいひとでした」と題する追悼文があって、印象に残った。
20年ほど前に、ピナがバルタバスの舞台を見にパリ郊外の劇場に来てくれたことがあって、知り合ったという。一時は一緒に舞台をやる企画まであったが、流れてしまったらしい。
バルタバスの記憶にあるのは、ピナが自分の劇場に来た際に雷が鳴った時のことだ。雷が怖いピナは屋内に閉じこもっていたが、どこからか犬がたくさん集まってきてピナを取り囲んでいたと言う。
追悼文には、アヴィニョン演劇祭でバルタバスがピナの肩を揉んでいる実にいい写真が添えられている。

この2人は、演劇とダンスの中間地点でほかの誰もできない不思議な舞台を作る。これに匹敵するのは、もうとっくに亡くなったけれどポーランドのタデウシュ・カントールくらいではないだろうか。

この週刊誌はどうもバルタバスと特別な関係にあるようで、1年ほど前に彼が国からの助成金を減らされて文化省地方事務所の部屋を壊した時に、アルバネル文化大臣への抗議文を1ページ載せていた。それへの文化大臣の反論はなぜか「ル・モンド」に掲載されていたはずだ。

バルタバスとは一度だけ夕食に同席したことがある。一回目の来日の時で新橋の「橙屋」だった。京都で買った作務衣のような衣装で現れた彼はなんだか魔術師のように見えた。一歩間違えば、詐欺師にも見えかねない感じだった。

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「ヌガ」

たぶん2年ほど前にできた銀座のビストロに行った。ワインバー「シノワ」の経営ということで、前から気になっていた。
お金をかけていないけれど普通のパリ風の内装が成功している。料理も田舎風パテは身が締まっていてコショウの具合が見事。タコとクスクスのサラダは普通にうまい。シュークルーとだけはキャベツが少なくて予想はずれ。ワインはSt.Josephの赤を飲んだが、南仏的な甘酸っぱさにコクが加わっている。これでボトル5千円台はありがたい。「シノワ」のフォアグラ丼のような和洋折衷メニューがないのもいい。
こんな普通のビストロがもっと増えたらいいのだけれど。

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長い夏休みを!

1週間前から大学は夏休みだ。9月末まで続くのだから、20年以上サラリーマンをやっていた自分にはほとんど冗談のようにさえ思える。その頃の私はとにかく休みを取らなかった。ここ数年は取らないと文句を言われるので、1週間だけ休んで家で仕事をしていた。
その頃よく考えていたことがある。仕事相手の欧州の人々はまず1ヶ月は休む。そんなに仕事をしたら日本人はあらゆる分野で欧米を凌駕するはずだが、実際はそうではない。日本人がもっと休んでも経済成長率はたいして変わらないのではないか。逆に休むことが創造的な仕事につながる場合もあるだろうまた休みを取ることで広がる内需もあるだろう。
日本の夏は暑い。ネクタイこそ減ったものの、下着にシャツを着て革靴を履いて満員の電車に乗れば、それだけで汗が吹き出てくる。それを2ヶ月も続けるのは、いくぶんマゾ的な自己満足のような気がする。
欧米は同じ部署の人が交代で休む。早い人は6月から休みを取って、9月に休む人もいる。
どこか有名な企業が1ヶ月休みを義務付けたら、意外に成功して話題になって、日本中に広がると思うのだが。
こんなことを書くと「あなただって休んでいなかったくせに」とか「大学の先生は気楽でいいね」とか言われそうだけど。

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2009年7月24日 (金)

残酷映画2本

ホラーやスプラッタではないのだが、とにかく残酷なシーンが多い映画2本の試写を見た。
1本は香港の監督による『さそり』。もちろん梶芽衣子のさそりシリーズのリメイクで、もともとスタイリッシュでキッチュな映画だったが、今回の香港版リメークは香港映画的な誇張もあいまってかなりの珍品になった。

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2009年7月21日 (火)

『ロマンポルノと実録ヤクザ映画』

「禁じられた70年代日本映画」という副題を持つ樋口尚文氏の平凡社新書の新刊を近所の本屋で目にして思わず買ってしまった。70年代の日本映画というとポルノや実録ものを中心に、ヤケクソな映画ばかりという印象があったが、この本を読んで「だからこそおもしろいものも多い」ことを痛感した。
驚いたのは取り上げてある大半のDVDが出ていないことや、62年生まれの樋口氏が同時代的にかなりを見ていたことだ。同じ世代の自分が、80年代になってから神代辰巳や藤田敏八、曽根中生といった監督の作品を「作家主義」的に後から追いかけたのとは大違いだ。樋口氏は中学や高校でこんな変な映画を見たのだろう。たまたま松本清張が好きだった私は『球形の荒野』と「昭和枯れすすき」の2本立てを当時見たが、後者の方がずっといいできだったのはよく覚えていて、樋口氏の記述に大きくうなずいた。
実に多くの新書が出る時代だからこそこういうマニアックな本も出版可能なのだろう。

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2009年7月20日 (月)

「野村仁 変化する相-時・場・身体」展

六本木の国立新美術館で野村仁の大きな個展を見た。これまで画廊での小さな個展や、ほかの作家と一緒の展覧会しか見ていなかったが、2000平米の新美で見て初めてこの作家の重要性がわかったような気がした。
これまでの印象は、一言で言うと「関西の宇宙系誇大妄想の人」。ところがこれが緻密な地球や天体の観察のうえになりたった真摯な探求だったことがよくわかった。毎日同じ場所で太陽を日の出から日の入りまでを写真に撮り、その365枚の写真をつなげるという気の遠くなるような作業の結果が、あの不思議な美しさを持つ立体作品だったとは。
1998年に東京都現代美術館で開かれた河原温の個展を見た時と同じように、脳髄まで刺激するような眩暈にとらわれた。今月27日までだが、必見。
竹橋の近代美術館で見た吉原治良や藤田嗣治の個展にしても、世田谷美術館で見た堂本尚郎の個展にしても、日本人作家のきちんとした個展は胸を打つ。もっともっと見たいものだと思う。
それにしても同じ会場で「ルネ・ラリック」展と公募の団体展もやっているとは、新美とは本当に正体不明の美術館である。あるいは日本の美術界、あるいは文化行政のいい加減さを象徴する21世紀日本的な居直りと言うべきか。まあ、外国人には全く理解されないことだけは事実だ。

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2009年7月19日 (日)

『突然炎のごとく』

蒸し暑くて外に出る気がしなかったので、最近買ったフランソワ・トリュフォーDVDボックスの廉価盤から、『突然炎のごとく』を見た。かつて本当に好きだった映画のひとつだ。
たぶん25年ぶりくらいに見て、驚いた。「純粋な三角関係」の物語にちっとも心を動かされない。ジャンヌ・モロー演じるカトリーヌは、気まぐれでわがままな女にしか見えない。もちろん文学をそのまま映画にするトリュフォー独特のたたみかけるような語り口や、ジャンヌ・モローをはじめとして登場人物の天衣無縫で自由な演技は楽しいのだけれど。
自分は年をとって、ああいう物語をもう信じられないのかもしれない。トリュフォーがこの映画を作ったのは29歳の時だ。私が見た時はもっと若い。若い時にしか作れない映画を、若い人が好きになるということだったのか。
劇中で何度か使われるテーマ音楽の一つが、最近どこかで聞いたと思っていたが、イタリア映画の『輝ける青春』で使われていた。ジョルダーナ監督もまた若い頃にこの映画を好きだったのだろうか。
DVDの最初に「日本ヘラルド映画」のロゴが出たのも感無量だった。数年前にトリュフォーの全作品(ほぼ)上映をした会社が、いまは跡形もない。かつて長い間洋画インディペンデントの雄だったのに、何ということだろうか。

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2009年7月18日 (土)

ラ・ピッチョリー・ドゥ・ルル

広尾のビストロに出かけた。友人が予約してくれたからだが、人気抜群で予約が大変らしい。
人気の秘密はわかる。鴨のコンフィや子羊のロースト、カスレなどフランスの伝統的な料理をきちんと作り、値段も手頃。給仕も親切で店内に人間味が漂っている。そのうえ、ワイン1本が3000円台からと安い。そのうえ夜中の12時を回っても、まだ開いている。
重い料理が多いので、翌日はお腹にこたえた。もうすこし軽い料理があったらとも思うが、たまに肉をがつりと食べに行くところと思えばいいのかもしれない。

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2009年7月17日 (金)

猛暑に雪の映画を見る

本格的な暑さが始まった今日この頃だが、偶然雪ばかり出てくる映画を2本見た。
1つは、『南極料理人』の試写で、8月8日から公開だ。南極基地の料理人を堺雅人が演じるコメディで、堺をはじめとして生瀬勝久やきたろう、高良健吾などが南極で1年半を過ごす8人の男たちとして登場する。外は零下50度の中で、保存食をたくみに料理する場面が楽しいし、閉ざされた空間でそれぞれが少しずつ壊れていく様子もいい。夏休みに家族で見るのにぴったりの軽快な作品だ。
もう一本は現在東映系で公開中の『剣岳 点の記』。こちらは重い。明治時代の測量隊が剣岳に登る過程を、たんねんに描いた重厚な作品だ。明治の人々の凛として生きる精神が、物語の構成にも演出にも役者の演技にも生きていて、なんともすがすがしい。主演の浅野忠信を始めとして、香川照之、松田龍平、宮崎あおい、仲村トオル、役所広司など役者たちの表情がまたいい。特に浅野や香川が時がたつごとに本当に山で暮らしている表情になってゆく。撮影監督として知られていた木村大作の初監督作品がこれほど成功するとは思わなかった。クレジットも「仲間たち」という形で俳優もスタッフも役名なしでズラズラと続く。これも監督の美学なのだろう。
頭の中が雪だらけで帰宅したら、夕刊に「大雪山系遭難 10人死亡」という見出しが踊っていた。とりあえず『剣岳』を見れば、夏山でもどんなに危ないかがよくわかります。亡くなったのが50代から60代の方々と言うが、丸の内東映の客層と全く同じだ。あの世代は山が好きなのだろうか。

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「渡津海」

神楽坂というと名前からしてさぞいい店が並んでいるように見せるが、現実はさにあらず。最近流行っているのは、石畳に面した古い家屋を簡単に改装して怪しげな日本料理を出すチェーン系の店だ。フランス人などに好きな店を聞くと、挙げるのはまずその手の店だ。
その中で「渡津海」は、数少ないまともな店。まずさしみの盛り合わせを頼んでみよう。そのひとつひとつの濃厚な味わいに驚くだろう。あるいはカレイの唐揚げの香ばしさや新じゃがの土佐煮の食感、そしてシメで取る梅雑炊の微妙な味加減。板前はよけいなことを言わず、ひたすら包丁を使う様子が絵になっている。値段も安くはないが、高過ぎもしない。客層もいい。
かつては若宮神社に近いところにあったが、数年前神楽坂上の方に移ってきて、場所もひろくなりより落ち着いた雰囲気になった。

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2009年7月16日 (木)

異色の時代劇続々

9月になると異色の時代劇が続々と公開される。9/5は「クレヨンしんちゃん」を原作にした山崎貴監督の『バラッド』。9/12が西田敏行主演の『火天の城』と小栗旬主演の『TAJOMARU』。そして9/19には松山ケンイチ主演の『カムイ外伝』が封切りだ。
とりあえず『TAJOMARU』と『カムイ外伝』を見たけど、どちらも相当変わった時代劇だった。『カムイ外伝』についてはこのブログで前に触れたが、とにかくどの登場人物にも感情移入ができない、相当破壊的な脚本だ。『TAJOMARU』は何と黒澤明の『羅生門』のリメークも含むという野心作だが、『カムイ』の逆で脚本はおもしろいのに、映像がちょっとテレビ的で映画らしい醍醐味が足りない。見ていて笑うべきか悲しむべきか迷ってしまうような不思議な演出だ。
ほかの2本はどうなのだろうか。

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2009年7月15日 (水)

『サルコジ マーケッティングで政治を変えた大統領』

朝日新聞パリ支局長の国末憲人氏がフランスのサルコジ大統領について書いた本を読んだ。「週刊文春」で鹿島茂氏が触れていて気になっていたからだ。
なんであれほど品格も知性もない男をフランス人が支持するのか不思議だったが、これを読んでよくわかった。要するに中小企業の経営者的センスでフランスを変えていこうとしているからである。また小泉やオバマと同じく、自らさまざまなストーリーを生み出し、メディアに露出させて行くからだと。すべてがマーケッティング的な発想をベースにしている。つまり国民は乗せられ、操作されているに過ぎない。
人間の劣化は何も日本だけではない、フランスのような国でも進行中なのだとこの本を読んで思った。

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2009年7月14日 (火)

アメリカのドキュメンタリー

珍しくアメリカのメジャーの試写室に出かけて8月公開のドキュメンタリーを2本見た。
ひとつはソニーで見た『宇宙(そら)へ』。NASAが秘蔵している50年間の宇宙開発の映像をまとめたもので、見応えがあった。NASAというと、どうしてもアポロ11号の月着陸ばかり記憶にあるが、それに至るまでの長い歩みとそれ以降の展開も含めてじっくりと見せてくれる。打ち上げに失敗したロケットや、ヒューストンから交信をしながら対応を練る数十人の研究者たち、あるいは双眼鏡片手に見守る何千という一般の人々、そして月の表面、月から見た地球など、50年間の試行錯誤をじっくりと見ることができる。ロケットの発射がまるで大きな爆弾を爆発させるような、反自然的なものだと初めて実感した。日本語吹き替え版で見たが、最後のゴスペラーズの日本語のテーマソングだけは興ざめだった。
もう一本はディズニーで見た『ディズニー・ネイチャー フラミンゴに隠された地球の秘密』。こちらは昔からテレビなどでおなじみのネイチャーもので、アフリカ・タンザニアのナトロン湖に生息するフラミンゴの一生を追う。塩の固まった中に卵を産み、小さな鳥が生まれ、成長して行くという何でもない話だが、湖の厳しい自然と、ハゲコウやマングースなどの敵に襲われながら生き延びる姿がだんだんいとおしくなってくる。残酷なシーンは長く見せなかったり、赤い羽をモチーフに使ったり、唯一出てくる人間である地元の男に赤いマントを着せたり、いくつかの一般向けの演出は気になるが。

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2009年7月13日 (月)

最近のイタリア映画

北イタリアを舞台にしたイタリア映画が、続けて2本公開される。
18日(土)の公開は、新人アンドレア・モライヨリ監督の『湖のほとりで』。山間の小さな村の湖のほとりで少女の遺体が見つかる。捜査に当たる刑事役のトニ・セルヴィッロは、人々のそれぞれに救う深い闇に向かい合うことになる。自らの闇も含めて。何より、トニ・セルヴィッロの演技がいい。サスペンスタッチでありながら、登場人物の奥深いところにせまってゆく力が新人離れしている。「アモーレ」や「マンジャーレ」ばかりではない、冷たいガラス細工のようなイタリアがそこにある。
8月1日(月)公開の『ポー川のひかり』は、巨匠エルマンノ・オルミが見せる愚直でシンプルな物語がいい。図書館じゅうの古書に釘を差すという奇行をした若い教授は、すべてを捨ててポー川のほとりに住みだす。集まってくる人々の様子が何とも自然だ。しかしその生活は長続きはしない。現代文明に素手で立ち向かうようなオルミの力技である。
この2本は昨年の「イタリア映画祭」で上映されたものだ。映画祭で紹介されて評価され、それが劇場公開につながるというのは、実に自然で幸福な成り行きだと思う。
北イタリアと言えば、25日(土)に公開されるスパイク・リー監督の『セントアンナの奇跡』も、大半はトスカーナ地方が舞台だ。アメリカ映画とはいえ、イタリア人が話すシーンはすべてイタリア語(正確にはトスカーナ弁)だ。1944年の「サンタンナの大虐殺」を描いたものだが、冒頭と終わりに出るルイジ・ロ・カーショ(『輝ける青春』のニコラ!)を始めとして、ヴァレンティーナ・チェルヴィやピエルフランチェスコ・ファビアーノ、オメロ・アントヌッティなど名優が続々と出演するので、イタリア映画ファンには見逃せないだろう。

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2009年7月12日 (日)

『1Q84』

話題の小説をようやく読んだ。大学の授業が終わったので、つい気分的に余裕ができて、近所の書店で1と2の2冊ともいっぺんに買った。読み始めると不思議に止められなくて、1日くらいで読み終えた。
1980年代のノスタルジーとオーム事件以降の新興宗教の問題。それに17歳の少女が書いた小説を改ざんして文学賞を取るというサスペンス・ゲームや10歳の時に別れた男女の悲恋が加わる。

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2009年7月11日 (土)

たった30余点の「ゴーギャン展」

竹橋の東京国立近代美術館で「ゴーギャン展」を見た。いくつかの傑作、ことに日本初公開の米国ボストン美術館の大作<<我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか>>を見ることができたのはすばらしい体験だったが、それにしても出品点数が少なかった。版画を入れても50点あまり、油絵だけでは30余点である。

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生誕百年

牛込・矢来町の新潮社の前を通ったら、「生誕百年 新潮文庫」と書いてあって、太宰治と松本清張の大きな写真が並んでいた。まさか二人が同じ年の生まれとは思わなかった。
一方は東北の金持ちの息子で、東大仏文学科に進み、1930年代から小説を発表し始める。戦後は『斜陽』や『人間失格』などで戦後文学の旗手となり、1948年に愛人と入水自殺する。その作風はモダンで諧謔に満ち、現代も愛される。
もう一方は貧しい生まれで、高等小学校卒。印刷会社などの仕事を経て徴兵され、戦後は新聞社の意匠部で務めながら1950年に初めて小説を発表する。太宰が死んでから2年後にデビューしたわけだ。『砂の器』や『点と線』など推理小説でありながら、高度成長を歩む戦後日本の矛盾を露呈させたドロドロした作品を発表し、大衆に愛された。
その違いは写真を見るだけで明らかだ。色白で倦怠感溢れる太宰と、自分を虐げた世間をにらみつけるような清朝。清朝の写真からは戦後日本の歩みが匂ってくるようだ。もし太宰が長生きしていたらきっと清朝に嫌われたに違いない。2つの写真を見ていると、「君に何がわかる」と太宰に向かって言う清朝の口調が伝わってきそうだ。
『斜陽』『パンドラの匣』など今年になって続々と映画化が進んでいるのは太宰だけ。清朝の世界は、現代日本ではもはや忘れたいものかもしれない。

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2009年7月10日 (金)

『鉄道ひとつばなし』

原武史が講談社のPR誌『本』に連載していたものが新書になっているのは知っていたが、だいだい連載時に読んでいるからと思って買っていなかった。今回初めて読んでみて、冒頭から驚いた。
「日本の暦が太陽暦に変わったのは、1873年からであり、・・・当時の日本人は、日の長さによって時間が伸び地縮みする太陰太陽暦によって生活していた」という。明治天皇はこの直後に東北を旅行したため、東北では時間の概念が早く広まった。時計店の数が東北で急速に増えたという。九州では時計が普及するのにずいぶん時間がかかったらしい。もちろん鉄道に時計は欠かせない。
「日の長さによって時間が伸び縮みする」生活とはどういうものだろうか。今からわずか130年ほどまえにこうした自然のリズムと共に生きることができたなんて。「何時何分にどこへ行く」ではなくて、日没までに帰る」とかだったのだろうか。人間は近代化の名の下に、最も重要なものを失った気がしてきた。

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2009年7月 8日 (水)

『アニエスの浜辺』

かつてのヌーヴェルヴァーグ唯一の女性監督、アニエス・ヴァルダの遺言的作品だ。
生まれたベルギーのイクセル、幼少期を過ごした南仏のセート、パリの自宅兼スタジオ、70年代を過ごしたカリフォルニア。思い出の場所にカメラを持ち込み、自ら話す。そこに差し込まれるのはそれぞれの時代に撮られた写真や映画。後に撮られたドキュメンタリー映像もあれば、少女時代のアニエスの格好をした少女が演じるのを今回劇映画のように撮影したシーンもある。もちろん最愛の夫だった監督のジャック・ドゥミは、まんべんなく出てくる。
最初に海辺に鏡をいくつも並べるシーンがある。ルネ・マグリットもベルギー出身だが、アニエスが時空を超えたマグリット的なシュールな組み合わせが何よりも好きだったことがこの映画を見るとよくわかる。マグリットの絵に白い布で頭を覆われた恋人たちの絵があるが、この映画ではそれを再現さえしている。
ヌーヴェルヴァーグとは何だったかについて聞かれて、「プロデューサーのボールガールがゴダールや私たちに金をかけずに映画を作ってくれと頼んだから」と実に簡単に答えるのもおかしい。
ただし113分は少し長いかもしれない。終わりには家族も助手も全員集合で、前にこのブログで芸術家の世襲をからかった私としては、ちょっとうんざりした。コクトーの『オルフェの遺言』くらいの慎みが欲しかったかも。
岩波ホールで10月10日から公開。

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日本映画の挑戦

以前このブログに今年の日本映画は豊作だと書いたが、その影には必ずしも大成功とは言い難い作品も少なくない。
現在公開中の『蟹工船』は、最近話題の戦前のプロレタリア文学にSABUが取り組んだものだが、原作の暗澹たる雰囲気はなく、むしろ未来的な不思議な空間が印象に残った。見ていて笑うことも泣くこともできず、何をいいたいのか今ひとつピンとこないが、かつての社会主義リアリズムではなく、21世紀的な労働と映画の形を示そうとした意気込みは評価すべきだろう。主人公の松田龍平の演技もその意図にぴったりだ。
9月に公開される崔洋一監督の『カムイ外伝』もまた、感情移入のしにくい、とらえどころのない映画だ。主人公の松山ケンイチはその野性的な風貌や動きがぴったりだが、いったい何のために逃げ、人を殺すのか、伝わってこない。それでも走り続ける松山はどこか未来的で、これまでにない映画を目指そうとしている感じはわかるが。小雪や佐藤浩市といった脇役もいいだけに、もっと人間ドラマをからめて欲しかった。この監督はCGには向かないのかもしれない。
公開中の『MWームウー』(岩本仁志監督)は、むしろそのテレビ的なアクション重視の姿勢が、映画を古めかしく見せる。手塚の奥深い漫画が、わかりやす過ぎる娯楽作品になった感じというべきか。
10月に公開される『パンドラの匣』(冨永昌敬監督)の場合は、有名な文学に絡めとられてしまって雰囲気重視の古くさい映画になった気がする。場面場面はおもしろいのに、なぜか画面が走らない。小説家の川上未映子が映画初出演ながらいい味を出しているし、窪塚洋介にはベテランの風格さえ感じられるのだが。
こうした試行錯誤を重ねながら、日本映画は新しい方向に挑戦をしていると信じたい。

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2009年7月 7日 (火)

死亡記事

有名な人が亡くなると、新聞に死亡記事が出る。一面に出て写真入で100行もあるものもあれば、社会面の下の方に7、8行で済ますものも多い。で、「文芸春秋」は現存する有名人に自分の死亡記事を書いてもらうという企画をやった。、それを文庫にまとめたのが『私の死亡記事』。久しぶりに手に取ったがやはり面白い。
阿川佐和子は「それにしても美しい人を失った。余談だが、美人長命という言葉が辞書に載るようになったのは、阿川さんがきっかけであったとは、あまり知られていない話である」と書く。
鹿島茂「200X年、迷路のようになった書庫の中で、必要な古書を探しているとき、突如、関東地方を襲った平成大地震によって崩れ落ちた古書の下敷きになり、死亡」。
桐野夏生「10月7日、香港の上環地区にある永安老人病院で死亡した日本人女性が、二十年前に失踪した作家の桐野夏生さん(74歳)とわかり、周囲を驚かせている」。
関川夏央が残した本人の言葉「葬式には私が愛した女たちが津波のように押し寄せてくるだろう。悲嘆と嫉妬の叫びで会場が混乱するのは死んだ本人としても不本意だから、整理券を出して時間差で告別するようにしてもらいたい」。
中野翠「最期の言葉とすべく、かねて用意の「風になりたい」という言葉を呟いたつもりが、ろれつが回らず、「粥を食べたい」と間違われ、ムッとしたとたんにこときれたという」。
そのほかにも多くの人が書いているが、大半がまじめに自分の自慢話をしているのにも驚く。

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『中国10億人の日本映画熱愛史』

劉文兵という中国人留学生が書いた本が、集英社新書から出ている。いやいや、目からウロコとはこのことだ。
文化大革命の直後、1978年以降に上映された『君よ憤怒の河を渡れ』や『サンダカン八番娼館 望郷』などの日本映画が、空前のブームとなったという。『君よ・・・』を10回以上見た人も多く、この映画を見るために4、5キロを歩いて行くことがざらだったという。「高倉健や原田芳雄、中野良子のヘアスタイルや衣装が流行の指標となり、ヒロインの役名にあやかった美容室や化粧品が数多く出現し」たという。
1980年代になって流行ったのは、『赤い疑惑』の山口百恵という。「当時の多くの女子学生が山口百恵のブロマイドを財布に入れて持ち歩き、寝室に飾った」。「コン・リー」もデビュー当初は中国の山口百恵として売り出され、山口百恵のイメージを一時的に利用した」。
最も驚いたのは『砂の器』に陳凱歌の『黄色い大地』や黄建新の『黒砲事件』などの第五世代の作品に大きな影響を与えたというくだりだ。80年代後半に第五世代の台頭に目を瞠った世代の私としては、まさかそれがあの凡庸な『砂の器』の影響があったとは信じられない。もちろんそれは第五世代に才能があったからだし、それらの才能が世の中に出やすくなった中国の社会状況が大きいわけで、日本映画はあくまで触媒となったに過ぎない。
それにしても1970年代の日本の普通の娯楽作品がこんな影響を与えていたとは驚いた。海外における日本映画の評価というと、黒澤や溝口、小津などばかりを考えるのは欧米だけを基準にしたものだとわかった。

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2009年7月 6日 (月)

『ディア・ドクター』

田舎のニセ医者事件を鶴瓶主演で描く映画と聞くと、コミカルなものを想像するが、これは人間社会の奥深いところまで迫る力作だ。
ニセ医者とそれを知って支える人々も含め、悪い人は1人もいない。医者は村人に尊敬され、4年間も過ごす。インターンの学生が来さえも見破られない。その人間模様の不思議なあわい。
逆光で撮られた人の顔など、とてもDVDでは見えないような繊細な絵作りと、医者の4年間と事件発覚後の刑事の捜査とを入れ子細工にしながら真実に近づいてゆく絶妙のシナリオで、人間存在の闇の部分に静かに迫る。
鶴瓶や余貴美子、香川照之など登場人物の表情がいい。ときおりはいる村の風景や、家の中などの人のいないカットの的確さなど、西川美和監督はわずか長編3作目にしてもはや巨匠の域である。
今年は日本映画の秀作が多いが、これが一番かもしれない。

余談だがこの映画を見ながら、突然大学教師を始めてそれらしく授業をし、たぶん学生に人気のある自分を主人公に重ね合わせた。

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2009年7月 5日 (日)

アジアの「負け犬」

出版社が出しているPR詩には、意外ににおもしろい文章が多い。何かのきっかけで自宅に送ってくれるようになった講談社の『本』では、いつも原武史の「鉄道ひとつばなし」が楽しみだ。
同じ『本』の7月号に載っている酒井順子の自著の『負け犬の遠吠え』をめぐる文章がおかしかった。韓国では「負け犬」は「老処女」と訳されたという。中国では「余女」というらしい。身も蓋もない言い方ですごい。ソウルでは「1人でいるのは寂しいけれど、儒教の教えに従って自分の安売りはしない」という考えで、「たとえ余ってしまったとしても、絶対に自分の意思を貫く」のは上海の女性。翻って東京の負け犬は「どうもふらふらしている」。「儒教的な感覚と西洋的な感覚の間で、もっとぎりぎりな股裂き状態に陥っているのが、もしかすると東京負け犬かもしれません」。
最後まで読んで、これが新著『儒教と負け犬』という本の宣伝だとわかったが、この短文だけでもおかしい。

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2009年7月 4日 (土)

文化資源学会

大学の先生はおおむねどこかの学会に属しているらしい。4つも5つも入っている欲張りな人もいる。で、私も15年ほど前に仕事をしたことのある友人に誘われて「文化資源学会」なる学会に最近入会した。そして今日がその総会と研究発表だったので、本郷の東大に出かけていった。
発表は、大学院の博士課程クラスの若い男女3人だった。最初の女性は明治後期の百貨店を中心とした着物の柄の流行の展開について語り、次の男性はロッセリーニ監督の映画「インディア」のフランス版とイタリア版を綿密に比較し、3番目の女性はフランスのシャルトル大聖堂が、19世紀半ばにその価値を高めてゆく過程を話した。
それぞれ力作でおもしろかったが、その話し方は人に何かを語る感じではない。壁に向かって朗読でもしているようでちょっと奇妙だった。質問も活発に出たが、おおむね自分の主張をしたい風で質問の体をなしていない。
「文化資源学」とか「表象文化論」とか「カルチュラル・スタディーズ」とかいう新しい学問は、要するに従来の美術史や文学研究に収まりきれない事象を扱っているせいで、分野は多岐に渡り、他人の発表を聞いてもおおよそ何だかわからない感じだ。
よく見わたしてみると、そこにいた100名足らずの大学教師や院生はいかにも世間離れした格好をし、女性でも地味な人が多い。そしてみんな、とてもいい人のように見える。見方によっては宗教の集まりのようでもある。
東大の古い建物の中で座りにくい椅子に座りながら、学問とはそういう不思議な世界なのだと改めて実感した午後だった。

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新聞の映画評

新聞はどれを読んでも書いてあることは同じと言われて久しいが、こと映画評に関しては比べてみるとかなり違う。特に「朝日」の突出ぶりが目立つ。
毎週金曜の夕刊が各紙に映画評が載るが、昨日の7月3日に掲載された翌日公開の作品を見てみると、だいたい『蟹工船』と『MW-ムウ-』『美代子阿佐ヶ谷気分』を中心にすえて、『私は猫ストーカー』を小さく扱っている。ところが「朝日」は『エヴァンゲリヲン新劇場版』(他紙はゼロ)と『私は猫ストーカー』という超メジャーと超マイナー映画を組み合わせる奇策だ。念のため先週を見てみると、各紙は『ディア・ドクター』を中心に据えているが、「朝日」だけにはほかのどこにも載っていない『トランスフォーマー/リベンジ』と『BASURA バスーラ』という超メジャーと超マイナーが並ぶ。
私自身、『蟹工船』も『MW-ムウ-』も特に好きな映画ではないが、とにかく今週公開の話題作であることは間違いない。それらを捨てて、『エヴァンゲリヲン』についてのオタク的な絶賛記事を載せるのはちょっとバランスを欠いている。
「朝日」は他紙と違って、小さな評と言うものがないのも欠点だ。スペース的には「日経」や「毎日」の1ページより多いのに、扱う映画は少ない。そのくせ気に入るとインタビューをした翌週に映画評を載せるという念の入りようだ。最もスペースが広いのは読売で丸々2ページ。そのうえミニ評もあり、インタビューもあり、前週末の興行成績まで載っていてバランスがいい。
最新のまとまった映画の情報を知るのに最も適したのが「読売」なのは間違いない。その次は、いい外部筆者を揃えた「日経」か。「毎日」の数人の記者が「もう一言」と短い意見を述べ合うのはおもしろいとは言いがたい。もちろん、超メジャーと超マイナーの織りなす「朝日」の摩訶不思議な独断的選択眼が好きな人もいるとは思うけれど。

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2009年7月 2日 (木)

『グッド・バッド・ウィアード』

8月末にシャンテほかで公開される韓国映画の試写を見た。
1960年代以降の「マカロニ・ウェスタン」とはアメリカの西部劇をイタリア版で作ったある種のパロディ映画だったが、この映画はそれを1930年代の満州に移しかえ、韓国の監督が人気の韓国俳優を中心に中国人や日本人を使って撮ったとんでもない代物だ。題名のGood, Bad, Weirdはもちろんセルジオ・レオーネがイーストウッドらを使って撮った『続・夕陽のガンマン』(1966, The Good, the Bad and the Ugly)やその後に作られた同種の映画から来ている。つまり最初から善玉と悪玉をきちんと分けて、物語ではなくひたすらアクションの面白さを競う映画だ。
満州に走る鉄道を馬車で襲う出だしからわくわくしたが、ひたすら銃撃戦だけで、途中で少し退屈してしまう。宝物が埋蔵された場所をめぐる争奪劇で、イ・ビョンホン、チャン・ウソン、ソン・ガンホの人気の3俳優に加えて中国人や日本兵も入り混じって大騒ぎする。中国人は中国語、日本人は日本語を話すが、大勢出てくる日本兵(チラシにはクレジットされていないが白竜も演じている)が全員間抜けな死に方をして1人もいなくなるのがおかしい。最後にたどり着いた場所で3人が銃撃戦をやるあたりからまた盛り上がる。その場所に突然石油が涌くのも爽快だ。
感じとしては三池崇監督の『スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ』に近いかもしれない。イ・ビョンホンを軸に韓国ドラマファンに売りたいのはわかるけど、チラシやプレスに少しでいいから西部劇やマカロニ・ウェスタンへの言及が欲しいところ。映画の最後にはOriental Western by Kim Jee-Woonとまで出てくるのだから。それにしてもオリエンタル(東洋の)・ウェスタン(西洋の)とはおかしな言い方だ。
西部劇の黄色い砂の濃厚な大地と違って、中国奥地の妙に白っぽい地面や澄み過ぎている青空も妙に新鮮だった。
白といえば主演3人の歯が輝くように白いのも印象的だ。昔パリで韓国から来た女子学生に「日本人と韓国人を見分ける一番簡単な方法は、歯を見ること。日本人は歯が汚いから」と言われたのを思い出した。 韓国では歯を磨くことを小さいときから厳しくしつけるらしい。
さてこの映画は「メチャクチャ デ イイノダ」がキャッチフレーズ。前売りは写真プレゼントもあって絶好調と聞くが、どの程度ヒットするか。

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ACTミニシアター

今朝地下鉄に乗っていたら、赤坂ACTシアターの「CHICAGO」公演の中吊り広告があった。その劇場の名前を見て、昔早稲田にあった名画座のACTミニシアターを思い出した。靴を脱いで入り、座布団に座ってグリフィスやチャップリンを見た記憶がある。80年代後半のことだ。時々解説もついた。ある友人が、あそこは奥に行くと日本共産党につながっているから用心した方がいいと言ったが、本当だろうか。
赤坂の劇場は確かTBSがやっているはずだが、ひょっとして名前を付けた人はかつて早稲田の名画座に通った人だったりして。
大井武蔵野館とか並木座とか、つぶれた名画座の記憶は不思議と鮮明に残っている。

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2009年7月 1日 (水)

『幸せはシャンソニア劇場から』

9月にシネスイッチ銀座などで公開されるフランス映画の試写を見た。
1936年のパリの落ちぶれた下町の劇場シャンソニアを舞台に、そこを守ろうとする人々を描いた群像劇だ。ちょうど日本映画の『Always3丁目の夕日』のように、CGを使って古き良き町並みを再現し、現在は失われた人情に支えられて生きてゆく人々を描く。前半は少しもたつくが、後半の人気歌手ドゥースが劇場を救うために戻ってきてからの舞台で繰り広げるミュージカルの数々は見ていてウキウキする。
海辺で踊る女性たちを真上から撮ったシーンを見てバスビー・バークレーのMGMミュージカルみたいだと思ったが、後でプレスを見ると、監督がバスビー・バークレーを意識して作ったと書かれていた。
戦前のパリの下町を描くのに、ノスタルジーに寄りかかって美化しすぎる姿勢がいささか気になった。例えば、1936年にジャン・ルノワール監督が撮った『人生はわれらのもの』に描かれる人民戦線運動はもっともっと厳しいリアルなものだ。

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佐藤優

学生に「チェコのフロマートカは知っていますか」と聞かれて、確かどこかで触れられていたなと本棚をめくっているうちに佐藤優の『獄中記』にたどり着いた。
2006年末に出た本で、年末の海外旅行中に飛行機の中で読んだはずだが、あらためて読むと妙に感慨深い。外務省の主席分析官として活躍していた佐藤氏は、鈴木宗男議員に対する国策捜査的な動きの中で、外交資料館に左遷される。しばらくするとそこで逮捕されて獄中で512日を過ごすことになる。
私自身は現在大学で教えており、逮捕されたわけでもないのだけれど、よかれと思ってやりすぎた結果異動になり、その後組織を去って別世界に生きる感触は少しだけ近いものがある。国家に養われながら、自由な時間が無限にあっていくらでも本が読める大学は、どこか牢獄に似ているかもしれない。
それにしても佐藤氏の読書の量、それ以上に読む本のレベルの高さはとても真似ができない。
一度佐藤氏を見かけたことがある。あるホテルのロビーだったが、ぎょろりとした目に殺気さえ感じたのをいまさらのように思い出す。
ここまで書いた分を見直していたら、佐藤氏の有罪確定のニュースが入った。執行猶予付きとはいえ、上司の了解を経てやった仕事で担当者が有罪となるとは、聞いたことがない。彼は課長でさえなかったのだから。
人間の組織は、ときおり志の高すぎる者を排除する。

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