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2010年2月24日 (水)

『抱擁のかけら』を再度見に行く

試写で見て、たいそう気にいったので、映画館にもう一度見に行った。何といっても、ペネロペ・クルスの格別に可愛い姿をもう一回見たかったこともある。彼女はウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』やもうすぐ公開の『NINE』など、今やその魅力が全開状態にある。ましてやスペイン映画で、それもアルモドバル相手なら間違いがない。

まるでヘップバーンのような、素直で鮮烈な表情が強く印象に残る。それよりもすごいのはアルモドバルの物語の進め方だ。出だしで盲目の元映画監督を見せてしまうが、それが街で会った女性との情事の場面という設定が、何ともうまい。
物語を求めるアルモドバルの執念が、随所に感じられる。ペネロペが金持ちの愛人と別荘で寝るシーンの白いシーツの象徴性の強さ。窓から撮った海岸に写る小さな男女という設定のうまさ。あるいは盲目の監督が事故の映像のビデオモニター画面を両手で撫でるシーンの官能性。
映画はその盲目の謎を追う形で最後までぐいぐいと引っ張るが、終わってみるといくつか腑に落ちないところがある。ペネロペの愛人だった男の息子は、結局何のために監督の事務所に現れたのか。彼が無実であることを示すためだろうが、その映像がどこかもの足りない。あるいは事故の前にこなごなに引きちぎられた2人の写真は何を意味するか。編集し直された映画は、ちょっと長すぎるうえにオチがない。

ふと思って『トーク・トゥー・ハー』のDVDを見なおしたが、このような破綻はなく、実に見事な終わり方だ。2度見ると、『抱擁のかけら』は、アルモドバルのなかでは中くらいの作品のような気がしてきた。
気になって調べたら、日刊紙で最後の破綻に触れていたのは日経新聞の宇田川幸洋氏だけだった。「ただ、ラストだけは、どう解釈すればいいのか、描写が曖昧である」と書く。朝日の品田雄吉氏の文章はあらすじばかりで、最後の問題に触れる以前におもしろさが伝わってこない。読売の小梶という記者は、完全に映画を読み違えて「これは、自分の失った過去を、映画を再編集することで取り戻す男の物語だ」と書いている。困ったものだ。

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