ヘルツォークの新作とニュー・ジャーマン・シネマの現在
2月27日に公開されるヴェルナー・ヘルツォーク監督の『バッド・ルーテナント』の試写を見た。あのニュー・ジャーマン・シネマの旗手だった鬼才ヘルツォークがアメリカでニコラス・ケイジを主演に撮ったということ自体がおかしな話だが、映画はそれにもまして珍品だった。
ヤク中毒のいいかげんな刑事が、悪事を続けながらも自分でも驚くような活躍で昇進してしまうという物語だが、サスペンスも恋愛もアクションもユーモアもみな中途半端。最も記憶に残るのは、ヤク中毒のニコラス・ケイジが見る幻想で、特にワニやイグアナが可愛らしくておかしい。『アギーレ/神の怒り』や『フィッツカラルド』以降は、文明社会を告発するセミ・ドキュメンタリーを何本も撮ったヘルトォークらしい、エコな幻想だ。
あえていえば、全体に漂ういかがわしさが何ともおかしく、永遠の不発弾のような妙な魅力を放っている。
それにしても、いったいなぜヘルツォークが今頃アメリカでメジャーな映画を作れたのだろうか。そもそもニュー・ジャーマン・シネマはいまどうなったのだろうか。
フランスだったら最近亡くなったエリック・ロメールもそうだが、ヌーヴェルヴァーグの監督たちは今もそれなりの作品を作り続けている。ゴダール、リヴェット、シャブロル、レネとみんな新作はおもしろい。
ところがニュー・ジャーマン・シネマときたら、死んだファスビンダーはともかく、シュレンドルフはアメリカで『ボイジャー』のような駄作を何本も作るし、ヴェンダースは『ベルリン 天使の詩』の後は力の抜けたような小品を時おり発表しているだけだ。ヘルツォークも最近は、いったい誰が見るのだろうというような不思議なエコ+SFのドキュメンタリーを連発していた。クルーゲはもう監督を離れたようだし。
ドイツ映画祭などを見ていると、ファティ・アキンとか、クリスチャン・ペツォルト、オスカー・レーラーなど2000年以降の新しい才能が確実に出てきている。ニュー・ジャーマン・シネマは確実に終わったようだ。
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