スクリーンで見る古典映画:その(2)
先日、日経ホールの「女たちの記憶 フランス映画特別上映」で、ゴダールの『女と男のいる舗道』とブニュエルの『昼顔』とオフュルスの『歴史は女で作られる』を立て続けに見て、動揺してしまった。やはりスクリーンで見ると、DVDとは全く違う。
『女と男のいる舗道』が感動的なのは、映画がそれまでに培ったストーリーを語るための技術をゴダールが敢えて捨てているからだろう。冒頭、話す男女は後ろ姿しか見えない。言葉と音の洪水。かと思うと、アンナ・カリーナの顔のアップだ。デンマークからやってきてゴダールに見出された(そして後に捨てられる)アンナ・カリーナの実存が、見る者に迫ってくる。アンナ・カリーナがドライヤーの『裁かるるジャンヌ』に涙するシーンが実にはまっている。
『昼顔』は何と言ったらいいのか、悪い冗談を堂々とエレガントにやられてしまった感じだ。最後に夫が急に目が見えて歩き出した時に羊たちの鈴の音がすると、本当に奇跡が起こったような気がして、凍りついてしまった。ドヌーヴの上品さそのもののような演技や衣装が、ミッシェル・ピコリやピエール・クレマンティらの怪優たちの競演の真ん中に芯を入れている感じだ。
『歴史は女で作られる』は、やっぱり変な映画だ。豪華絢爛と言えば言えるが、それぞれのシーンはユーモアに満ちている。時おり出てくるサーカスの物悲しいシーンとあえて呼応していないように作られたようだ。これは意図的な失敗作なのではないか。
リスト役のウィル・キャドフリーグやババリア王を演じるアントン・ウォルブルック、そして学生役のヴェルナー・オスカーなど、男たちが何ともいい味を出している。それに比べるとマルティーヌ・キャロルの演技は平板に見えるが、これも意図的なように思えてならない。
やはり映画はスクリーンで見ないとわからない。今後古い映画をスクリーンで見る機会はどんどんなくなるのだろうか。
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