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2010年5月20日 (木)

落語調のゴーゴリを読む

数年前からドストエフスキーなどの古典をわかりやすい新訳で出すのが流行っているが、その代表である光文社から、ゴーゴリの『鼻』『外套』『査察官』が一冊で出ているのを見つけて買った。帯に「“落語調”新訳!」と書かれていたのが気になったからだ。訳は浦雅春氏で、これがめっぽうおもしろかった。

「ところがあァた、驚くまいことか、鼻のあるべきところに何にもなくて、つるつるてん!腰を抜かしたコワリョフは水を持ってくるように命じて、タオルで目をこすってみますが、あいや、まさしく鼻がない!まだ夢でもみてるんじゃないかと手でさわってみますが、どうやら夢ではないらしい。ガバと寝床からとび起きると、やっこさんブルッと体をふるわせた――鼻がないッ!すぐさま着替えを命じると、その足で警視総監のところにすっ飛んでいった」。
こんな具合で全編が続く。読みやすいこと、このうえない。ある朝起きると突然鼻がなくなって、ある日突然戻ってきた不条理なユーモアの世界が素直に伝わってくる。
この小説のすごいところは、終りにこの話は不自然すぎるとか、物書きがこんな話をなぜこしらえるかわからない、こんな話はお国のためにならないなどと書くところで、そのメタ言語にひやりと暗黒の世界に触れた気になる。

『外套』のアカーキー・アカキエヴィッチの話も落語調でわかりやすい。おもしろかったのは、主人公が外套を注文して心待ちにしている日々の記述。
「それからというもの、やっこさんの存在自体がなんだか充実してきたような格好です。何かこう嫁でも貰ったというのか、誰かやっこさんと同席しているようだというのか、どうやらもはや一人ではなく、心許せる人生の伴侶ってのが共に人生を歩んでくれると約束してくれたような格好なんであります。伴侶というのは、ほかでもござんせん、厚手の綿が入って、しっかり裏地の付いた外套ってわけです」。何とも微笑ましい描写。

『鼻』や『外套』は四半世紀前に読んだはずだが、全く記憶から消えていた。これからは、ずっと頭の中に残りそうだ。落語調で。

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