澁澤龍彦の優雅な映画論
週末に立ち寄った地元の本屋でブリューゲル風の表紙が目に留まって、『澁澤龍彦映画論集成』という文庫を買った。澁澤龍彦といえばサドの翻訳者で多彩な趣味人という印象だが、彼の映画論を初めてまとめて読んで、その教養の高さと優雅で自由な趣味に共感を持った。
かつて映画に社会や人生への教訓を読み取るような、まじめな映画評論家が多かった。80年代くらいから、物語や意味を離れて、映画のテクニックや細部に映画史を重ねて論じる、映画原理主義者が現れた。もちろん澁澤はそのどちらでもない。ひたすら退廃的、変態的なものを求める趣味の人だ。コクトーやブニュエル、パゾリーニ、あるいはドラキュラ映画を愛する。武智鉄二の『白日夢』のように、一般には失敗作と言われた映画も「シニカルな、よく計算された、文明批評的な映画」と絶賛する。
そしてなぜか禁欲的なベルイマンを愛する。彼を絶賛するくだりで「腑抜け男と高慢ちきなブルジョア女が、ふやけたような恋愛をしているアントニオーニなんぞの世界とくらべてみて、わたしは、どれだけきびしい、男らしい、ベルイマンの世界を愛していることだろう」と言い放つ。
カトリーヌ・ドヌーヴを絶賛するくだりもおかしい。「どちらかと言えば、痩せた、ぎすぎすした植物的な身体つきをしているのに、カトリーヌ・ドヌーヴの第一の特徴である、その壮麗な金髪だけは、挑戦的にふさふさして、獣のように脂くさい感じがする。/やや下唇を突き出すようにして、彼女はいつも薄く口をあけている。/左右の瞳が多少アンバランスで、その焦点の定まっていないのが、なにか投げやりな、道徳感覚の欠如した、マゾヒスティックな感じを与える。……そうだ、カトリーヌ・ドヌーヴは奇妙な一種のデカダン人形なのだ」
『ブリキの太鼓』でオスカルが叫ぶと市立劇場の窓が割れるシーンに「オスカルは私だ」と思い、涙が出そうになる。映画を見終わって、配給した川喜多和子さんと南千住にウナギを食べに行く。あの映画を見てウナギを食べるとは。連れていく方もヘンだが。
このように楽しく、自由な文章を書く評論家は最近見当たらない。
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