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2010年9月24日 (金)

ベネチア国際映画祭:おまけ/「新聞の映画祭評」評

新聞ではカンヌなど海外の映画祭が終わると、長い記事が載る。「グローバリゼーションに立ち向かう政治的なテーマが目立った」とか書いてあっていつも「本当かな」と思っていたが、今回は自分もベネチアに行ったので、興味を持って読んだ。以下は朝日、読売、日経の記事の読み比べだ。

一番無難にまとめたのが、読売の恩田記者だ。2回の記事で1本目は受賞作のワン・ビンの「溝」(ザ・ディッチ)やわずか9分のジャファル・パナヒの短編の意味を強調して「誰の、何を上映し支えていくかが映画祭の真価を決する」という、いわば当たり前の結論を書く。
2本目は「今年、特に良かったと思うことの一つは、日本の若い人気俳優たちも現地での公式上映に出席したこと」と書き、「現地を訪れ、海外の映画人や観客と接すれば、次につながる何かが残る」と書く。「出会いの場としての映画祭」ということは、何十年も前から言われてきた当たり前のことだが。

朝日の石飛記者は今年の賞の傾向を「政治性や社会性をきれいに排してみせた」と書く。映画祭自体の傾向としても「純粋に映画の魅力を競わせたい。そんな空気をひしひしと感じた」。そして『十三人の刺客』が賞を取らなかったことを「日本人としてではなく、一映画ファンとしてくやしく思う」と結ぶ。さらにその日の夕刊で石飛記者は、園子温の『冷たい熱帯魚』とともに「「カルトな監督」というレッテルが大きな賞を取るには邪魔になるという事実」があるとする。そして『十三人の刺客』の無冠を「近い将来、ベネチアはこの選択を後悔するだろう」とまで書く。
読売に比べると、ワン・ビンの傑作などに触れていない分、今年の傾向を述べており、「映画祭は出会いの場」などとまとめずずに、賞にこだわっているところがおもしろい。しかし少し短絡的な気もする。
賞も含めて、映画祭はすべてディレクターの掌のうちにある。マルコ・ミュラーのセレクションは、「映画にはこんなものもあるよ」というスノビズムが基本だ。アニメもカルトも娯楽も、忘れられた巨匠の新作もアジアの新鋭も実験的映像もわざと混ぜる。三池作品はその味付けの一つでしかない。これは「今年の傾向」ではなく、ミュラーがロッテルダム映画祭をやっていた20年も前からの、話題を呼ぶための彼の常套手段だ。私は個人的にはこうしたスノビズムは好きではないが。

自分の感覚にわりと近かったのは、外部の斎藤敦子氏が日経に書いた記事。ワン・ビンの無冠も含めて「アジア作品の受賞作がない、残念な年になった」とまとめる。そして最後に「日本は外国に比べ、映画の芸術性という点で意識が薄い」「映画祭に選ばれ、受賞するためには何をすればいいのか、日本の映画界は今、真剣に考えるべき時に来ている」と結ぶ。ちょっと唐突な感じもあるが、私なりに解釈すればこうだ。
日本映画の大半は、『おくりびと』も『悪人』も含めて、「娯楽作」として欧州の映画祭には選ばれもしない。あくまで経費を回収すべく一般向けに作られた日本映画は、欧州では「芸術」とは言われないということだ。それからこれは私見だが、極端な残酷も「芸術」にはならない。「カルト」云々以前の話だ。

欧州の映画祭に選ばれ、賞を取るのは、例えば『ユリイカ』や『誰も知らない』のような映画だ。日本映画にはそんな「芸術」など関係ないと言ってもいいと思うが、現実はこういうものだということは、もっと知っておいた方がいい。

ちなみに3人の誰も書かなかったのは、銀獅子賞と脚本賞を受賞したスペイン映画『トランペットの悲しいバラード』も主演女優賞のギリシャ映画『アッテンバーグ』も、日本人ジャーナリストには極めて悪評だったことだ。このことは新聞でもネットの映画ニュースでも誰も触れていない。さすがに「自分はわかりませんでした」とは書けないだろう。日本人にはなかなか理解し難い、欧州的文脈の「芸術」がそこにあるのかどうか。

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