コーエン兄弟のわからない楽しさ
コーエン兄弟は、20年ほど前の『ミラーズ・クロッシング』や『バートン・フィンク』の頃からユーモアと畳みかけるようなドラマで魅了し続けてきたが、最近になってちょっと困った映画を作るようになった。前作の『バーン・アフター・リーディング』はあれだけスターを揃えながらわざと不完全燃焼にしたような映画だったが、今度の『シリアス・マン』もまた妙な映画だ。
今回は有名俳優は出ていない。しかし困った物語だ。最初にユダヤの夫婦が(たぶん)オランダ語で話している。そこに現れるユダヤのラビ。それから急に舞台は1960年代のアメリカに移り、ユダヤ人の大学教授に次々と巻き起こる災難を描く。これがおもしろそうに見えて、なぜか不愉快さが残ってしまう。
さまざまな人々が手を替え品を変え主人公を不幸にしようと待ち構えているが、彼らはいずれもカリカチュアのようでリアリティがなく、どこか笑えない。見ていて喜劇なのか悲劇なのかさえもわからない。英語とユダヤ文化のくわしい人に、きちんと説明してほしいと思った。
主人公が何度も言う「何もしていないのに」I have not done anythingは、どういう意味なのだろうか。
ラストの唐突な津波も含めて狐につままれたような感じだったが、そのわからなさがどこか快かった。ユダヤのユーモアはわからなかったけれど、コーエン兄弟一流の皮肉を味わうのは、実は不快ではない。むしろわからないのが、楽しかった。
コーエン兄弟もたくさん撮ったので、変なことをやってみたかったのだと思う。この映画は普通の映画評ではなく、アメリカのユダヤ文化にくわしい人が書いた文章を読みたい。それを読んでからもう一度見ると、何倍もおもしろいような気がするからだ。
公開は2月26日から。
| 固定リンク
「映画」カテゴリの記事
- 『旅と日々』の不思議な感覚(2025.11.15)
- 東京国際映画祭はよくなったのか:その(6)(2025.11.11)
- 東京国際映画祭はよくなったのか:その(5)(2025.11.07)
- 東京国際映画祭はよくなったのか:その(4)(2025.11.05)


コメント