青春小説としての『嘔吐』
この夏に出た時に買った、ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』新訳をようやく読んだ。鈴木道彦氏の訳で、帯には「60年ぶり待望の新訳」と書かれている。この本は長い間白井浩司氏の訳で知られていた。私も四半世紀前に白井訳を買ったはずだが、冒頭を読んだだけで脱落した記憶がある。今回初めて最後まで読んで、青春小説としてのおもしろさに唸った。
青春小説と書いたが、むしろ青春の終わりを描いたものかもしれない。「僕」アントワーヌ・ロカンタンは、数年間世界中を旅した後に、フランスに戻り、港町ブーヴィルで歴史研究をしている。かつてロンドンでつきあったアニーとも別れ、港町ではカフェの女と愛のない関係を持つのみだ。つまり、「冒険」の日々の後に、淡々と本を読む生活を繰り返す。
ところがある時、自分を取り囲むものの存在に吐き気を感じ始める。「嘔吐」の自覚。彼はアニーに再会して関係が終わったことを確認した後に、新しい世界へ踏み出す。つまり、歴史研究をやめて、小説を書き始める。
こう書くと何だかつまらなく見えてしまうが、細部の描写がいい。ある日の日記は「新しいことは何もない」で始まり、「私は独りきりの生活をしている。完全に独りだ。だれともけっして話をすることがない。何も受け取ることがないし、何も与えることはない」。
「何かが始まるのは終わるためだ。……ついで一気に何かが壊れる。冒険は終わった。時間は日々の無気力なやわらかさを取り戻す。私は振り返る。背後ではこの旋律的な甘美な美しい形がすっかり過去のなかにのめりこんでいる」。
吐き気が襲う瞬間はこうだ。「人が見たものは抽象的な作り事であり、清潔にされ、単純化された観念、人間の観念である。眼前にある。……本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば存在は必然ではない。存在するとはそこにあるということだ。……それは絶対であり、従って完全な無償性である。すべては無償だ。この公園も、この町も、私自身も。それを理解すると胸がむかむかして、すべてはふわふわと漂い始める」。
私にとってはこうした感情はもはや過ぎ去ったものだが、何とも懐かしく甘酸っぱい。それにしても「実存主義」とは何だったのだろうか。もっとサルトルを読みたいと思った。
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