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2011年4月30日 (土)

イタリア映画祭2011:その(1)ゲストがゼロ

今年もゴールデンウィーク恒例のイタリア映画祭が始まった。かつて自分も関わったので思い入れのある映画祭だが、今年はイタリア人ゲストがゼロだという。地震の影響だろうが、来たい監督や俳優はいたことだろう。「ナシ」と決めてしまったイタリア政府側のいいかげんな人々の顔が見え隠れする。

映画そのものは、いつもの通りハイレベルだ。昨日は2本見た。

『われわれは信じていた』は、去年ベネチアで見ていたけれど、もう一度日本語字幕で見たかった。複雑な歴史的背景が英語字幕ではとても理解できなかったからだ。しかし「おもしろいし感動したが、わかりにくい」という感想は今度も変わらなかった。日本で言えば幕末の時代のイタリア統一の物語を庶民の側から描いたものだ。日本人だったら坂本龍馬とか西郷隆盛とか言われればだいたいわかるが、マッツィーニとかクレスピとかオルシーニとか出てきても、日本人にはわからない。

そのうえ、3人の若者の物語なのに、マッツィーニなどが登場する場面もきちんと時代順に描かれていて、舞台も彼らの故郷のイタリア南部のチレントから、トリノ、パリ、ジュネーヴ、ロンドンなど目まぐるしく移り変わる。それらがすべてセットなので、パリもロンドンも同じに見える。そのうえ暗い場面が多く、アップがすくないので誰だかわかりにくい。4部に分かれた作品だが、時代もどんどん飛ぶ。ベネチアで見たのはたしか3時間半で今回は170分の短縮晩だが、それでも長い。

しかしながら、純粋な思いを胸に迷いながら生きる人々を淡々と描く、抑制の利いた演出はすばらしい。とりわけ第3部以降、若者たちが中年になってからの戦いぶりは痛ましい。パリのオペラ座前でナポレオン襲撃に失敗してアンジェロがギロチンにかけられるシーンの迫力。第4部でルイジ・ロカーショ演じる老いたドメニコが故郷に向けて舟に乗る夕日。あるいは故郷で話すことのできない母と再会するシーンや出会った若者が友人の息子とわかるシーンなど。それらがヴェルディの音楽と共に語られる時の、オーソドックスな感動。

その前に見たロベルタ・トッレの『キスを叶えて』は、トッレらしい才気と繊細さが光る作品だが、力作『わたしたちは信じていた』を見た後では、かすんでしまった。

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