桜の見え方
数日前の朝日の夕刊で、蜷川幸雄氏が若い頃は桜を桜として見られなかったと書いていた。春は受験などの失敗ばかりで、まともに桜が見られなかったという。私は長年の会社員生活を辞めて2年前から大学で教えているが、昔に比べると今は桜をじっくりと味わっているように思う。
普通の会社は、プロジェクト単位で時間が流れていく。あるプロジェクトの一員となり、社内外の人々と協力して進行させる。それが終わると別の企画へ、あるいは異動で新しい職種へ。もちろん年齢と共に役割は異なる。アシスタントから中心的存在になり、責任者になり、そして会社の中枢に行くか、窓際に行くか、現場に残って迷惑がられるか。
だから会社員時代の記憶は、一つ一つの仕事に宿っている。あの企画であの人とパリに行ったのは、1997年春のこと、という具合だ。一つ一つの季節に浸っている暇はない。
ところが教師の仕事は、毎年繰り返しだ。多くの場合、毎年同じことを教える。それを何十年も続ける。
違うのは学生だ。毎年、新しい学生が入ってきては、入れ替わるように4年間たった学生がいなくなる。ようやく手をかけて育てたとこちらが思っても、先方は新しい世界に旅立ち、こちらのことはもはや思い出しもしない。そしてこちらは少しずつ老いてゆく。これを無常と言わずして何と言おうか。桜の花は、そんな教師にとって無常の象徴のように見える。
小津安二郎監督の『小早川家の秋』で、中村鴈治郎が亡くなった後、火葬場の煙突から煙が出る。それを見る老夫婦の夫役の笠智衆が、「人間というのは、後から後からせんぐりせんぐり生まれてきては死んでゆくんだなあ」というセリフを言う。後から後から入学してくる新入生を見ると、「せんぐりせんぐり」という言葉がぴったりだと、今頃になって思う。
入ってくる学生は同じように見えて、毎年違う。世代による全体的な差異もあるし、それ以上に一人一人が異なっている。その小さな差異に一喜一憂する毎日だ。
昔、「ケルト美術展」という展覧会に係わったことがある。その時、チェコ人の監修者が「ケルト美術の装飾は、繰り返しの表現のように見えて、いつのまにか変容している」と言っていたことも思いだした。
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