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2011年9月 3日 (土)

ベネチアで思い出す『ベニスに死す』

ベネチアに来る直前に、10月1日からニュープリントでリバイバル公開される『ベニスに死す』(71)をイタリア文化会館の試写で見た。8年前に見たはずだが、古典は見るたびに発見がある。今回驚いたのは冒頭のシーンだ。

最初にマーラーの5番が流れて、ベネチアの夏の海が出てくる。霧の向こうから太陽が差し込み、かなたに広がる横長の島。そして見事に日焼けしたヴァポレットの船乗りたちの不親切な様子。ホテルの受付のあまりにも機械的な対応。とてもイタリア語とは思えないような強いなまり。今回は昼間に着いたので、その心地よさと当惑を十分に味わうことができた。

ヴィスコンティの映画はある時期から変容する。簡単に言うと、痛いほどのリアリズムから美的で装飾的になる。それは恐らくこの映画の少し前からではないだろうか。『山猫』(63)は装飾的だが、シチリアの重い現実がある。『熊座の淡き星影』(65)にも、イタリアの地方都市特有の生々しさが伝わってくる。どこか作り物のような感じになったのは、たぶん『異邦人』(67)からだ。

『異邦人』はカミュで『ベニスに死す』はトーマス・マンが原作だ。ひょっとしたら、外国の作家をもとにしたあたりから、それまでの皮膚に張り付くようなリアリティがなくなってきたのか。

それよりも『ベニスに死す』では、ヴィスコンティはもうやりたいことをやるようになったのだと思う。やりすぎなくらい執拗に繰り返される美少年の映像とマーラーの音楽。それに比べると、ときおり挟み込まれるドイツの回想のシーンは、どこか力を抜いている気がする。
ひたすら少年をズームやアップで捉え、映画全体をダーク・ボガートの視点としてしまう強引さ。その意味でこれは一人称の映画だ。

ベネチアというどこか死の匂いのする魅惑の都市、金髪の美少年、疫病にかかる異国の作曲家、という過剰な設定にマーラーが流れる。ヴィスコンティは、この映画でネオリアリズモから明らかに新しい段階に入ったのだと思う。

それにしても、ベネチアにはこの映画が見せてくれたこの都市だけが持つ耽美な匂いが、今でも生きていると思う。リド島にも、サン・マルコにも。

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