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2011年9月29日 (木)

『ダブル・ファンタジー』の通俗さに唖然

いくつもの文学賞を取った村山由佳の『ダブル・ファンタジー』が文庫になったので読んでみた。実を言うと8割くらいは『週刊文春』連載時に読んでいたのだが、あんまり評判がいいので、通して読んでみたくなった。

一挙に読んでみて、その通俗的な物語に唖然とした。美人でスタイルのいい35歳の脚本家が主人公で、元編集者でマネージメントを引き受ける優しい夫と別居し、男遍歴を重ねるというもの。冒頭の出張ホストに始まって、著名な演出家(志澤一狼太という名前!)に恋をし、振られると香港の取材で高校の先輩に再開する。一度きりの坊さん。最後が、7つ下のハンサムな俳優。何だそれは一体、といいたくなる。

美人の妙齢の脚本家というだけで、十分できすぎなのに、一人で住み始めると5人の男が順番に都合よく現れてくる。みんなそれなりにセックスの達人だ。こんなありえない話がウケるのは、セックスの夢や妄想に浸りたい人々が多いということか。

それでも細部がそれなりにうまいので、何とか読める。男たちがみなどこか滑稽に描かれているのがリアルでいい。とりわけ自信たっぷりのホストや坊さんの描写は抜群だ。また、主人公より少し年上の女性編集者との何でも告白しあうガールズ・トークが楽しい。「何て気が楽なのだろう。好きな男の前で非日常を装うのももちろん愉しいしエキサイティングだけど、この気安さ、親密さはやはり女同士ならではのものだ」。「恋愛ってさ、いくつになっても上手にならないよね」と女友達は言う。

それでも、セックスの瞬間だけをあれほど特権化して描くのは、どこか変だ。そのありえなさがいいのか。ラストで主人公は「ああ。/なんて、さびしい。/どこまでも自由であるとは、こんなにもさびしいことだったのか――」。この古めかしい終わり方は何だ。だからこそウケるのも知れないが。

白状すると、この小説と現在映画化されて公開中の『セカンドバージン』が、私の頭の中で一緒くたになっていた。私は映画の原作を読んでいると勘違いしていた。美人の不倫という共通点以外に、「ダブル」と「セカンド」というのも似ているし。ボケに注意の毎日だ。

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コメント

ダブル・ファンタジーのタイトル付けからして、オノ・ヨーコと対峙するだけの覚悟があったか疑わしいと思う。村山由佳にしろ、大石静にしろ、曲りなりにもブレないで生きてきた男性諸氏から見れば、生き様そのものが鼻持ちならない。因みに、オノ・ヨーコや紫式部は、手強い女に違いないだろうが、品格そのものは、自然に備わっていたものと推測できる。村山、大石に象徴されるような、今日の風潮から、一日も早く脱却するには、男どもの知性と覚悟が必要である。

投稿: 並木眞人 | 2011年10月 1日 (土) 12時12分

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