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2011年10月17日 (月)

『猿の惑星:創世記』を楽しむ

昨日は、ほぼ満員の日劇で『猿の惑星:創世記』を楽しんだ。予告編でCGを駆使したアクションものが次々と流れて疲れたが、この映画は少し違った。確かに猿のアクションはすべてCGだ。

しかしながら、それだけではない魅力がある。一言で言うと、映画的なつじつまが合っている。まず、『猿の惑星』という1968年に始まるシリーズの前段という設定がうまい。最後まで見ると、ここからあの世界が少しずつ始まるのだ、ということが理解できる。

それから、主人公のシーザーを始めとした猿の表情の豊かさがある。言葉を話さないだけに、まるで無声映画のように彼らの表情がすべてを物語る。例えば、シーザーのために犠牲になってヘリコプターに飛び込む猿の無言の別れ。シーザーが最初の実験で暴れた雌猿の子供という設定もうまい。

次に猿の攻撃は、あくまで「専守防衛」、つまり攻撃された場合の反撃のみで、目的は森に帰ることだ。まず自分たちが牢獄のような保護施設から飛び出し、研究所で実験に使われる猿を救いだし、動物園の檻に閉じ込められた猿を開放する。森に帰るためと考えると、激しいCGアクションのつじつまが合う。

そのアクションシーンもよく計算されている。研究発表中に飛び込んでくる猿のシーンの衝撃に始まって、家に連れ帰ったシーザーが数か月後に家の中を縦横に動き回る楽しさ。保護施設では、天井によじ登って森のありかを確かめてから、少しずつ反乱を起こす周到さを見せる。そして研究所や動物園や橋のシーンでは、猿が人間よりも身体能力がいかに優れているかを見せつける。

もう少し次の段階、つまり人間がおかしくなり、猿が繁栄するところまで見せてくれるかと期待したが、その手前で終わる。これもお見事。監督は新人のルパート・ワイヤットだが、次回作が楽しみだ。

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コメント

 元祖「猿の惑星」の5部作では、2作目の「続・猿の惑星」で地球が滅びてしまい、コーネリアスとジーラは過去にタイムトリップする。その子供がシーザーで、人類に対して反乱を起すというのが、シリーズを通してのストーリー。つまり、「猿の惑星:創世記」は、前シリーズの後半部分を換骨奪胎したリメイクであり、作品的には決して高評価ではなかったものを良質のエンタティンメントとして再創造したことをこそ評価すべきではないだろうか?
  「猿の惑星」は70年代のTV放映時に高視聴率を記録し、同シリーズは再三TV放映されており、日本版パステーシュのTV番組「猿の軍団」まで製作された。勿論、アメリカ版TVシリーズも放映されており、ある世代以上の映画・TVファンには、馴染みの深い作品である。日本に生まれた日本人で、日本の学生たちに映画史を教えるなら、外国で仕入れた情報をひけらかすより、多くの日本人に受け入れられている映画史を知っておくのが先ではないだろうか?こんな人間が大新聞の映画記者たちの御意見番とは、新聞の映画記者たちもよほどレヴェルが落ちているのだろうか?

投稿: heikichi1959 | 2013年10月26日 (土) 02時30分

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