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2011年11月11日 (金)

ニーチェの出てこない『ニーチェの馬』

試写にしても映画館にしても、その映画の醸し出す雰囲気だけで見に行くので、予備知識が一切ないことが多い。上映前にプレス資料も読まない。だからタル・ベーラの新作『ニーチェの馬』、は、ニーチェが馬の前でさめざめと泣くシーンを期待して見に行った。

ところがニーチェは最後まで出てこない。ニーチェどころか、出てくるのはくたばった馬と、右手が不自由な怖いオヤジと、無愛想な娘だけだ。あとは友人が一人訪ねてきて、馬車に乗った野蛮な集団が水を求めて通りかかるだけ。そもそも画面は白黒だ。

そこにいつも強い風が吹いている。親子は馬を使って何かを運搬しているようだが、馬は次第に動かなくなる。食べるのは、夕方に一度、茹でたじゃがいに塩を振っただけのもの。そして寝る。朝はウォッカを一杯あおる。これが、6日間、映画の時間にして154分続く。そして、最後に二人の食べる手が止まった時に映画が終わる。見ている方が息が止まりそうなラストだ。

見ながら、いろいろなものを考えた。強い風の音には、ドライヤーの『奇跡』を考えた。濃淡が強く、荒涼とした白黒の画面は、少なくともドイツより北のものだ。あるいはムルナウの『サンライズ』。気づかないほど巧みに使われる長回しは、溝口健二やアンゲロプロスのようなこれ見よがしのものではなく、ストローブ=ユイレやペドロ・コスタに近い。つまりある種の映画原理主義だ。

じゃがいもを荒々しく食べるシーンは、もちろんゴッホやセザンヌの絵画を思い出す。貧しい人々を描きながらも、彼らの絵画そのものが解体してゆくような感じに似ている。だから最後に二人が動かなくなった時は心底驚いた。本当にゴッホの絵になってしまったからだ。

途中で酒を借りに現れる友人がいい。こんなひどい世の中はもうすぐ滅びるというこの男の話は、妙に現代に当てはまる。そしてまさに現代の悪を体現するような馬車に乗った強欲な人々。しかし彼らは象徴的存在とならずに、リアルな毒を残したままで去ってゆく。

タル・ベーラは、映画原理主義者でありながら、ペドロ・コスタやストローブ・ユイレのようなスノビズムを逃れた稀有な監督である。1月公開。ちなみに原題は『ニーチェの馬』ではなく、「トリノの馬」。

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コメント

ネタバラしすぎです

投稿: あ | 2012年2月 2日 (木) 21時11分

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