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2011年11月 9日 (水)

「新聞の映画評」評:東京国際映画祭

先週半ばから週末にかけて、新聞各紙で今年の東京国際映画祭をめぐる総括記事が出た。ようやくまとめて読んだので、その「総括」をしてみたい。一言で言うと、本質がずれているか、あるいはあまりに表現がまどろっこしくて、真意がわかりにくいかのどちらだ。

まず、すべての新聞が審査委員長のエドワード・R・プレスマンの言葉を引きながら、相対的にレベルが上がったことを指摘する。それは事実だが、それはここ数年に言えることで今年の現象ではない。1991年以来、20年ぶりに審査員を引き受けたプレスマン氏にはそうかもしれないが、今年の特徴として書くことではない。それにしても、あの頃は本当にひどい作品があった。

『最強のふたり』が受賞したことに抗議したのが、読売と毎日。確かにこの映画のレベルは低すぎる。ここは日本の映画評論家に、こっぴどく批判させたらおもしろいのに。審査委員の小林政広監督の言葉を引用しながら、コンペ作品全体の「ウエルメード」ぶりを強く批判したのが日経。読売はさらに踏み込んで「作家性か大衆性かという議論は東京国際映画祭の根幹に関わるテーマである」と書く。

読売が書くように、「国際映画祭としての評価を確立するには芸術性の高い作品を上映することが、肝要だ」。もっと重要なのは、ワールド・プレミア(世界初上映)だ。これが少なければ、世界の注目は浴びない。毎日は「ワールドプレミアにこだわらず、世界の秀作に選択の観点を変えた。来年以降もこうした方向性を強化していく考えだ」と映画祭側の方針を説明する。もしそうだとしたら、コンペをやる必要はない。カンヌを始めとして、1年間に各地で上映された映画祭の話題作や傑作をすべて並べたらいいだろう。

ここ数年は「初上映にこだわらない」とか「観客の立場を第一に考える」とかの発言が映画祭側に目立つ。これは「初上映」を持ってくる力がないことを、「観客重視」という言葉で巧みにごまかしているように見える。

邦画が1本しかないことを批判したのは朝日。カンヌでもどこでも自国の作品を3、4本入れるのが常識だ。その国の税金を使ってやっているのだから。それにしても「この映画祭が日本映画発信の場となるには、日本の映画界と双方の努力がまだまだ必要だろう」という言い方は遠回しすぎる。

会場の不備を指摘したのは読売と朝日。朝日はプレス上映が不便なことを書いているが、これも「観客のため」の映画祭なら関係のないことだ。すべては国際映画祭として一流をめざすかどうかにかかっている。ちなみにプレス上映に入れなくて困ったのは、朝日の書くように記者や評論家だけではなくて、配給会社の人々もいる。国際映画祭ではこちらのビジネス面がより重要だ。読売が開催時期についても疑問を呈しているのはおもしろい。映画祭の総括は、作品だけではなく、こうした運営全体についてきちんと書く必要がある。

もっとも残念だったのは、世界初上映だったリティ・パニュ監督の『飼育』にどこも触れていなかったこと(朝日に2行のみ)。この野心作をコンペにいれるだけで、この映画祭の「格」がすいぶん上がったと思う。記者諸氏は見ていないか、あるいは監督の名前も知らないか。

それにしても各紙ともに1回だけというのは物足りない。そのうえ、読売を除くと部数の少ない夕刊だ。かつては朝刊に2、3回載っていたのだが。速報性ではテレビやネットにかなわないのだから、じっくりとした記事を読みたい。

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