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2011年12月21日 (水)

『アリラン』の小気味よい軽さ

3月公開のキム・ギドク監督『アリラン』を見た。鬼才が3年間の沈黙を破って発表した作品で、自分を撮ったドキュメンタリーというだけにちょっと心配だった。始まってすぐに、これはいけない、と思ったが、見ている間にそのだんだんよくなってきた。

監督が自分の苦境をカメラの前で語る。それも、前作で事故になりそうになった反省や、仲間のスタッフが金のために去って行った悔しさを話すのだ。これは辛くて見ていられないと思ったが、自分を撮った映像を、もう一人の自分が見ていたり、さらにもう一人の自分がケチをつけたりするあたりから、おもしろくなった。

世界各国の映画祭で賞を取ったことを自慢しながら、日本の監督のように最高賞を取りたいなどとぬけぬけと話すあたりで、どこかおかしみが出てくる。泣きながら「映画の作り方を忘れた」と言うのに、どこか軽い。これまでの作品のポスターや映画祭のトロフィーまでえんえんと見せて、子供じみている。

自分語りの合間に出てくるのは、一人暮らしの日常だ。山小屋(といってもi MACや自動車もある!)の生活で、ご飯を炊き、魚を焼く。そして大きなエスプレッソ・マシーンで実においしそうなコーヒーを作る。その手作業というか、ブリコラージュ(@レヴィ=ストロース)の部分が、なぜか映画になっている。しまいには拳銃まで自分で作って、それを持って街に出る。まるでメリエスみたいに手元にあるものをブリコラージュしながら、いつのまにか映画にしてしまった感じだ。映画の原点という感じがある。

この暗さの中の軽さ、明るさはどこかで見たなと思ったら、イランのジャファール・パナヒが共同監督した『これは映画ではない』だ。共に絶望的な状況にある監督が、絶望を語ることが、そのまま小気味よい軽さを持つ映画になっている。これらの映画の軽みは、例えば平野勝之監督の『監督失格』の一本調子にはない。

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