ポール・オースターの折り重なる物語と喪失
岡山に日帰りで行った時、新幹線でポール・オースターの『幻影の書』を読んでいたら、岡山でその本を読んだ女性から話しかけられた話はここに書いた。そのような偶然を誘発するほど、この小説は物語に満ちている。そしてそれが映画とつながっている稀有な例だ。
まず、事故で妻子を亡くした大学教授ジンマーの物語がある。彼は喪失感の中で生きているが、ある時に見たサイレントの短編映画が気になって、ヘクター・マンという主人公についての本を書くことになる。世界中のフィルムアーカイヴになぜか最近になって1本ずつ届いた彼の映画を追って、ジンマーは世界を巡る。
ここで私は、はまってしまった。パリやローマなどのフィルムアーカイヴを訪ねたことのある者としては、古い映画の缶があちこちに転がるあの独特の世界がたまらない。この小説は、ヘクターの出た映画を記述してゆく。もちろん架空の映画だ。そのいくつもの物語。
主人公がヘクターについての本を出版して、これで物語は終わりかと思うと、ヘクター夫人から「夫が会いたがっている」という手紙が届く。返事を出さないでいると、ヘクター夫妻から頼まれたというアルマという女性が会いに来る。
アルマが語るヘクターの物語。人気の絶頂にありながら、女性問題もあって消えてしまった男の喪失の物語だ。自分の名前を消して、不幸にしてしまった女の家を訪ねるヘクター。そこで出会う妹のノーラ。そのノーラの物語。そこを逃げ出したヘクターがシルヴィアと始める本番ショー。シルヴィアの物語。
死ぬ間際のヘクターはジンマーに言う。「何かを捨てて逃げることの意味が君にはわかっている。そういうふうに考えられる人間を私は尊敬する」。そしてヘクターの死と共に、後半生で作った誰も見ていない映画は燃やされる。
この小説に出てくる幾重にも折り重なった物語には、「何かを捨てて逃げること」の喪失感が貫かれている。
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