映画を語るバスター・キートン
『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』で両手を振り上げて走るトム・クルーズを見て、バスター・キートンを思い出した。そこで彼のDVDを何本か見て、意外なことに気がついた。彼の映画では、映画そのものについて語ったものが多いということだ。
これは見ればわかることなので、誰かが既に指摘していると思うが、1920年代の映画としては例外的ではないだろうか。
まず『キートンの探偵学入門』(24)は、映画館の映写技師が映画を見ているうちに自分もスクリーンに入ってゆくという話だ。もちろんそれはキートン演じる映写技師が見る夢なのだが、そんな夢は映画好きなら誰だってあるだろう。『北極無宿』(22)という短編は、北極を舞台にしたギャグの連続だが、最後に突然映画館で寝ているキートンが写り、掃除人に「終わったよ」と声をかけられる。見ていて「なあんだ、夢だったのか」と思う。映画と夢がどこか似た存在であると改めて思う。
極めつけは『キートンのカメラマン』(28)。これはニュース映画のカメラマンにあこがれるキートンが主人公。ふだんは観光客向けのカメラマンのキートンが、ニュース映画社に採用してもらおうと何度も通う。そこで仲良くなった受付の女性に情報をもらって、中国人街の暴動を撮りに行く。迫力満点のシーンを撮ってニュース映画社に帰るが、フィルムが入ってなかった。その後フィルムは見つかり、そのうえに彼の手柄を奪おうとした社員カメラマンの横暴まで撮られていて(そこを撮ったのはキートンが可愛がっていた猿!)、キートンは晴れてニュース映画社に迎えられる。
カメラが真実を映す道具としていかに有効かを、これほど示した映画はないだろう。それもコメディ仕立てで。猿でも映画は撮れるというのが痛快だ。ヴェンダースの白黒映画『ことの次第』(82)のラストを思い出した。
映画が映画について語ることを「映画の自己言及性」というが、ヌーヴェル・ヴァーグ以降に世界で主流になったと思っていたら、サイレント期にもあったとは。そういえば、キートンは『サンセット大通り』(50)に、「サイレント期の喜劇役者」として出ていたはずだ。また見たくなった。1本の映画を見ると、また別の映画を見たくなってキリがない。
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