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2012年4月27日 (金)

『仁義なき日本沈没』を軽く読む

春日太一著の新書『仁義なき日本沈没 東宝vs.東映の戦後サバイバル』は、楽しみながら軽く読めた。戦後の日本映画が、黄金期から没落してゆくまでの雰囲気がよくわかる。当たり前だが、「黄金期」でも自転車操業だった。

東宝の一人勝ちが定着してしまった今日から見ると不思議だが、観客数が10億人を超し、最も観客が多かった1950年代後半、首位は東映だった。東映を率いたマキノ光男は「先行する大手の東宝・松竹が銀座・渋谷・新宿と山の手の映画館を主力に、都会のホワイトカラー向けにインテリジェンスある映画を作るなら、こちらは下町や地方の劇場を主力に、ブルーカラー向けの泥臭い映画を作っていこう」「物語のベースは痛快・明朗・スピーディや!」。

これに対して公職追放から復帰した東宝の小林一三は、「百館主義」を唱える。「全国主要都市に百館の劇場を確保して巨大な興行チェーンを形成し、製作・営業の基盤を不動のものにする」「私は、会社の基礎は、何といっても直営の興行場をたくさん持つことにあると思っている」。もちろんこの考えが現在の東宝を作っている。

東映時代劇の黄金時代を東宝が切りくずしたのが、黒澤の『用心棒』(61)『椿三十郎』(62)だとは知らなかった。これが東映の正月の定番、オールスター時代劇に圧勝したという。

そして映画は斜陽期に向かい、東映の岡田茂と東宝の藤本真澄のサバイバル戦争が始まる。岡田は「任侠映画路線」を打ち出す。藤本は黒澤に代表される大作主義ではなく、「社長」シリーズや「サザエさん」シリーズなどの都会の喜劇に活路を見出す。

それでも映画は斜陽に向かう。71年に大映は倒産し、日活はロマンポルノに転向し、黒澤は自殺未遂。そんな時、東映は藤純子が引退し、新たに打ち出したのが、『仁義なき戦い』。京都撮影所の監督では任侠路線を超えられないからと、東京の深作欣二を提案したのは、任侠映画のプロデューサー、俊藤浩滋だったというのには驚いた。そして実録ヤクザ路線で東映は息を吹き返す。

東宝は倒産した大映を出た勝新太郎と組んで『子連れ狼』などで延命を図る。松岡功が特撮を統括する田中友幸に出させたのが、『日本沈没』の企画。脚本は黒澤映画で名高い橋本忍に依頼し、監督は「出来上がりが計算できる」森谷司郎。結果は、日本映画史上初の配収20億円超えとなる。

1973年の正月と年末に公開された2本から、映画界は大きく変わる。1本立ての大作主義、フリーブッキング、ホリプロや角川との提携等々。

映画興行は今も昔も場当たり主義で、一瞬先は闇。この本を読むとその感じがよくわかる。考えてみたら『エマニュエル夫人』が大ヒットしたのは翌年の1974年。洋画興行でも、この本のようなドラマを読んでみたい。

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