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2012年5月20日 (日)

なぜか『金閣寺』を読む

先日南アのケープタウンに出張する前に、買い込んだ文庫の一つが三島由紀夫の『金閣寺』だった。なぜ三島なのか、自分でもわからないが、長らく避けていた作家だったのは間違いない。

70年の自衛隊での割腹自殺以来、存在感はいつもあった。80年代半ばにパリに留学した時も、フランスの大学生たちにミシマ、タニザキの名前は知れ渡っていた(オヅ、ミゾグチの何倍も)。当時、ポール・シュレーダー監督の緒方拳主演『ミシマ』(日本では未公開)がカンヌのコンペに出たこともあった。

私自身は高校生の時に『金閣寺』など数冊を読んだきり。谷崎や漱石は就職してからも何度か読んで、そのたびにおもしろいと思ったが、三島だけはどうも触れなかった。あの自分中心的な、石原都知事につながるような愛国とナルシシズムの合体のイメージが嫌だった。

ケープタウン行きの飛行機でも、数ページを読んだきり、別の本に切り替えてしまった。そのむせるような美的世界に辟易したからだろう。

帰国して暇ができたので、いよいよ読んだ。おもしろくないわけではなかった。何よりイメージが豪華絢爛だ。例えば憧れの有為子が恋人と心中を図る場面のまさに「古い石版刷のような光景」。金閣が戦災で焼けることを夢想する場面。「明日、天から火が落ち、その細身の柱、その優雅な屋根の曲線は灰に帰し、二度と私たちの目に触れないかもしれない」。

極めつけは、茶室で美人が陸軍士官の前で乳房を見せ、茶の中に乳を落とし、士官がそれを飲むシーン。「暗い茶碗の内側に泡立っている鶯いろの茶の中へ。白いあたたかい乳がほとぼしり、滴りを残して納まるさま、静寂な茶のおもてがこの白い乳に濁って泡立つさまを、眼前に見るようにありありと感じたのである」。

まさに見てもいないものを、並外れた文学的想像力によって再現する美的な力。今の私は、このような作り物の美は求めていない。しばらく三島を読むことはないだろう。

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