なぜか微妙なセザンヌ展
ある友人からあまりおもしろくない、という話を聞いていたが、何はともあれ「セザンヌ展」を見逃すわけにはいかない。時差ボケも直り、ようやく国立新美術館に見に行った。良かったけれど、どこか期待と違う微妙なところがあった。
最近の西洋絵画の個展で印象に残っているのは、2004年の「マティス展」(国立西洋美術館)、2008年の「コロー展」(国立西洋美術館)、2009年の「マネ展」(三菱一号館美術館)、2010年の「ゴッホ展」(国立新美術館)と「ドガ展」(横浜美術館)などか。
今回の「セザンヌ展」も、フランスを中心に国内外の美術館から作品を集めた力業だ。しかし見ていてどこか足りない。例えば、パリのオルセー美術館やニューヨークのメトロポリタンや近代美術館でセザンヌをまとめて見た時の感動がない。
展覧会は「初期」から、「風景」、「身体」、「肖像」、「静物」、「晩年」と6つのカテゴリーの順に進む。私は「肖像」あたりになって、本当のセザンヌらしさが出てきた感じがした。つまり、人物と背景が交じり合って、形や色でハーモニーが出来上がる絵だ。2点のセザンヌ夫人の絵や《アンボロワーズ・ヴォラールの肖像》には息を飲む。
そして静物画が出てくる。これこそセザンヌの独壇場。なかでも、オルセーの《リンゴとオレンジ》は、形と色が闘いのように氾濫する傑作だ。「晩年」は、もはや気が抜けたような、軽みの漂う絵が数点。
そこまで見て、なぜ微妙な印象を持ったか、わかった。まず第一に年代順ではなかったため、セザンヌの模索から成熟への歩みが伝わらなかったことだ。それから全体に《リンゴとオレンジ》のような傑作が少なく、特に前半は小品が多かったこともある。
たぶん本質的には、セザンヌの絵の持つ軽みというか、余白が多く、どこか手を抜いたような不思議な空気感が一番なのだと思う。コローやゴッホのように、絵の迫力で見せる画家ではないのだ。同じ余白の画家、マティスに比べてさえも、そのパフォーマンス度は低い。
今回の展示は88点。広い新美に空間を大きく取った感じの展示だが、歩いていて快かった。「風景」のセクションの緑の壁も成功していた。それにしても、セザンヌの静物画をもっと見たい。6月11日まで。
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