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2012年6月15日 (金)

高橋由一の数奇な運命

上野の芸大美術館で「高橋由一展」を見てから、部屋に鮭の絵の実物大の複製を貼って、毎日見ている。するとこの絵の謎を解きたいという思いが日々強まり、古田亮著の新書『高橋由一 日本洋画の父』を読んだ。

古田氏は展覧会の企画者でもあるので、展覧会を見た後に読むと、いろいろ符合する点が多い。

読んで驚くのは、由一の洋画への盲目的ともいえる情熱だ。洋画の絵の具は輸入に頼っていたが、チューブ1つが、白米10キロの値段だ。そこで高橋は国産品の開発を手掛ける。

彼は洋画が日本の富国強兵に必要なものと考え、画学場の建設を訴える。高松の金刀比羅宮で博覧会が開催される機会に35点を出品し、画学場の経費のために2800円での買い取りを求める。ところが由一がもらったのは200円のみ。今回の展覧会では金刀比羅宮から多くの作品が出品されているが、この由一への不義理は歴史的にどう落とし前が着いたのだろうか。

独学で洋画を学んでいた高橋は、ワーグマンやフォンタネージに遮二無二弟子入りする。ところがアメリカからやってきた哲学者のフェノロサは、洋画を排斥し、日本画の優位を論じた。そして洋画科のない東京美術学校を岡倉天心と設立する。

由一はそれでも「展額館」という一種の美術館設立を計画し、自ら図面を引く。螺旋状でニューヨークのグッゲンハイム美術館に似た建物fだが、この構想にも賛同者はいなかった。

由一は失意のうちに1894年に亡くなり、その後フランスから帰国した黒田清輝が東京美術学校に洋画科を作る。そして日本の洋画は黒田以降のみが語られる。その後、1964年に神奈川県立近代美術館で個展が開かれるまで、ほとんど忘れられていたようだ。

映画史もそうだが、美術史もいつでも読み直しが可能であり、必要である。

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