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2012年7月13日 (金)

「威張るな」の一言

数日前に太宰治の短編を思い出して、気になってしょうがない。「私」の家に誰か知らない男が現れて、酒を飲ませろ、女房に酌をさせろなどと勝手なことを言うので、かつての知り合いかと思って相手をしていた。さんざん飲み食いした挙句に、男は「威張るな」と言って帰ったという話である。

これだけだと単なる迷惑な男の話だが、太宰は物書きは嘘つきであり、「威張るな」と言われてもしょうがない、と付け加える。この締め方が妙に気になった。

私は物書きと言えるほど書いていないが、時たま文章を書き、原稿料をもらう。いつもこれで大丈夫かな、詳しい人に読まれたら困るな、とオドオドしながら原稿を送る。物を書くという行為には、少なくとも私には、どこか嘘を書いているかもしれないが、ごめんなさい、という後ろめたさが付きまとう。

この感じは、数年前に2年近く新聞記者をやってから、強くなった。まさか部数ほどの人々が読んでいるとは思わないが、たいしてくわしくないことを偉そうに書いた後に、人づてにでも専門家の批判を聞くと、青くなった。「威張るな」の一言だ。

最近、大学の教師を始めて3年が過ぎた。今年からは2百人を超す学生の前で偉そうに講義をしている。教師は学生より立場が上なので、学生は間違っていると思っても抗議はしない。こんなに単純化して良かったかな、とかこれはわかりにくいかなと心配しながら話しているが、終わってしまえば、もう忘れてしまう。

文章を書くことや人前で話すことは、基本的には嘘をつくことだ。良く知りもしないことを説明し、ありもしないことをあると言い張る。それで喜ばれれば金が取れるわけだから、一種の詐欺師に近い。太宰の受けた「威張るな」という言葉の衝撃はそこにあると、勝手に解釈している。とりわけ人前で話すことは、書くことに比べて後に何も残らないだけに、詐欺の性格が強いと思う。

ナンシー関の「これでいいのか、お前は」とか、彼女のこの言葉について宮部みゆきが書いた「こんなもんでヨカンベ」主義というのも、根は同じことだと思う。ところでこの数日間太宰の短編を本棚から探しているが、出てこない。誰か教えてください。全く違う内容だったらどうしよう。

付記:その後友人からメールが来て、この小説は『親友交歓』だと教わった。「青空文庫」というネットには何と全文が載っていて、読んでみると私が小説の最後にあると書いた太宰のコメントはなかった。それは私の解釈だったようだ。

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