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2012年9月 3日 (月)

変わりゆくベネチア国際映画祭:その(3)

昨日は、コンペで興味深い作品が2本あった。1つはポール・トーマス・アンダーソンのアメリカ映画「マスター」The Masterで、もう1本はダニエレ・チプリのイタリア映画「息子だった」E stato il figlio。2本とも、物語は無茶苦茶だが、ひたすら映像で見せてくれた。

「マスター」は、第二次世界戦争の日本との戦いでで心を痛めた男(ホアキン・フェニックス)と、宗教めいた精神治療で莫大な財産をなした男(フィリップ・シーモア・ホフマン)の友情を描く、奇妙な物語だ。

性欲とアルコールと暴力にのみ生きがいを見出す獣のようなホアキン・フェニックスと、まるで『市民ケーン』のオーソン・ウェルズのように傲慢でやりたい放題のフィリップ・シーモア・ホフマンがなぜか、女性にコンプレックスを抱き、お互いを好きになる感じが何ともいい。

フェニックスが、戦後キャベツ作りやデパートの写真屋がうまくいかずに、港でパーティをする船を見つけて乗り込む夢のように印象的なシーンから、画面に吸い込まれてしまった。2人で順番にバイクで荒野を走ったり、フェニックスが、故郷に帰っていると映画館にシーモアから電話がかかってきたりと、何とも映画的な場面が続く。

「息子だった」は、これまでシチリアの破壊的なユーモアを得意としたチプリ&マレスコの二人組のうち、ダニエレ・チプリが単独で作った映画。シチリアのパレルモ郊外で、ある家族に起こった悲劇を、銀行の窓口で順番を待つ男が語るという構造で進む。シチリアの悲惨さ、醜さをこれでもかと見せつけながら、そこに不思議な美意識を感じされるスタイルは健在だ。娘が殺されて、その見舞金でメルセデスを買う父親役のトニー・セヴィッロの演技も見もの。

そのほかコンペのもう1本、イスラエル映画「空虚を埋めて」Fill the voidは、ユダヤ教の世界における結婚のむずかしさをそのまま描いたもので、まるでユダヤのプロパガンダ映画のようだ。これが何でコンペかわからない。

監督週間のドキュメンタリー「ボブ・ウィルソンによるマリナ・アブラモヴィッチ」は、マドリッドで行われた舞台をそのまま映画化したもの。その前になぜかマヤ・デレンの『午後の網目』(43)が上映されたが、これはプリントの状態が良く、楽しめた。

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