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2012年12月20日 (木)

フィルムの肌理

最近、まな板をプラスチックから木に変えた。木の匂い、そこに刻まれる無数の傷が何ともいい。ひょっとして、映画がフィルムからデジタルになった時に失われるものは、このような木目=肌理(きめ)のようなものかもしれない、とふと思った。

なぜ急にそんなことを思ったかというと、ここでも書いた「新・女性映画祭」が先週末から開催中で、毎日35ミリのフィルムを見ているからだ。見るというより、映画にどっぷり浸かる感じだ。

こんな浸かるような、沈むような感覚が、この1年で映画館からほぼなくなってしまった。『ル・アーヴルの靴みがき』や『アウトレイジ・ビヨンド』のように、フィルムで撮影されて、フィルム特有の色合いや匂いが立ち上がってくるような映画さえも、上映のほとんどはデジタルになってしまった。

今回の映画祭の、例えば『四畳半襖の裏張り』や『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』のニュープリントの美しさといったら。『四畳半』からは遊郭の日本間に漂う澱んだ匂いが伝わってくるし、『党宣言』では昭和の終わりにまだ残っていた、貧乏人が楽しく暮らす濃厚な空間が蘇る。

フィルムの交換の時に、パチパチと音がして、フィルムに雨が降る。時々、ゴミがあったり、妙に光ったり。一瞬、一瞬にフィルムの物質性が現れては消える。

かつてロラン・バルトはフランス歌曲を論じる時に、「声の肌理(きめ)」という言葉を使った。歌の内容よりも、歌い方、声の量といった身体性に注目した表現だった、と思う。

今、失われつつあるのは、まさにこのフィルムの肌理だと思う。あるいは光の肌理と言ったらいいのか。プリントによって少しずつ違い、上映されるごとに少しずつ形を変えてゆくフィルムの肌理。

富士フィルムが来年3月までしかフィルムを売らないと宣言しているのだから、今後はデジタルの映画しかなくなるのは当然だ。しかしせめてフィルムで撮影された映画は、そのままフィルムで上映できる環境は残して欲しい。

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