« ハネケの計算 | トップページ | 「自己啓発」の幻影 »

2013年1月18日 (金)

大島渚のこと:その(1)

大島渚監督が亡くなって、3日たつ。15日の夜にそのニュースを聞いて思ったのは、生きている日本の監督で最も大きな存在だった、ということだ。何度か身近で会ったことがあるが、いつも派手なスーツが光り、明るい笑顔から放たれるオーラに圧倒された記憶ばかりがある。

最初に近くで見たのは1986年9月のパリ。フランスで劇場公開直前の『マックス・モナムール』がシネマテークでお披露目され、上映後監督のトークがあった。聞き手は後に03年に小津シンポで日本に招待したシャルル・テッソン氏。

夜9時過ぎに現れた大島監督は夕食後だったようで、客席から見てもわかるくらい赤ら顔で上機嫌だった。内容はよく覚えていないが、ひたすらフランスという国が映画を大事にしているかを語っていた記憶がある。その後、シネマテーク内の関係者のパーティにも、友人のフランス人女性に誘われて顔を出した。彼女は映画の感想を言いに行ったが、私は恐れ多くて遠くから見ていた。映画自体に当惑したこともあっただろう。

その次はだいぶ後で、1998年の初台のオペラシティ。当時の私の同僚が武満徹追悼の映画祭を企画した時に、『夏の妹』の上映前トークに車椅子で現れた。この時のことはもっと覚えている。

小学校の時に朝日新聞の作文コンクールで1等賞を取り、大阪朝日の重役にぜひ朝日新聞に来なさいと言われて本気にしたこと。その後京大に進んで朝日の就職試験に応募したが見事に落ちたことを、最初に嬉しそうに語った。武満徹については、彼は既に大作曲家で、怖くてなかなか作曲は頼めなかったが、いい加減な監督がどんどん頼んでいたので腹が立ったことなど。

次は、その年の末。翌年に企画していた「パゾリーニ映画祭」の実行委員長の就任を依頼するために、東京プリンスホテルで開かれていた、テレビ番組の打ち上げパーティに行った。この時の鮮やかな紫のスーツが頭に焼きついている。

パゾリーニ映画祭自体はイタリアからフィルムを借りるのに失敗したが、有楽町の朝日ホールでシンポジウムをやって大島監督にトークをお願いした。この時は田中千世子さんが聞き手で1970年のベネチア国際映画祭に『少年』を持って行った時に、『豚小屋』を持って行ったパゾリーニとすれ違った瞬間を鮮やかに語った。

まだまだ書くべきことはあるので、後日。

|

« ハネケの計算 | トップページ | 「自己啓発」の幻影 »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/56565099

この記事へのトラックバック一覧です: 大島渚のこと:その(1):

« ハネケの計算 | トップページ | 「自己啓発」の幻影 »