冷戦下のカンヌ
昨日書いた冷戦下の映画をめぐる国際的なポリティクスについて続けたい。米国映画輸出協会のエリック・ジョンストン会長は、1951年に黒澤明の『羅生門』がベネチアでグランプリを取って、各国で上映されたことを資本主義陣営にとってすばらしいことだ、と書いているという。
黒澤の中でも難しい方の『羅生門』がアメリカ、イギリス、フランスなどを始めとして各国に売れたのは、実は政策的な意図もあったのかもしれない。
そもそも『羅生門』以降、翌年にカンヌで衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを取り、それから黒澤の『七人の侍』、溝口の『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』などが続々とベネチアで賞を取ったのは、ソ連および東欧圏、共産圏の作品を入れられなくなったので、急に日本が脚光を浴びたという見方がフランスではされていたらしい。
つまり、『羅生門』以降の日本映画の国際進出は、冷戦構造の中で仕組まれたものだったようだ。その証拠にいわゆる独立プロの作品はほとんど出ていない。新藤兼人や今井正、山本薩夫といった監督の映画は主にモスクワ映画祭やチェコのカルロ・ヴィヴァリ映画祭に出ている。
前にもここで触れたユニフランス初代駐日代表のマルセル・ジュグラリスは、カンヌを中心に欧州の映画祭に日本映画を出品することに尽力したことでも知られている。彼がカンヌに推したのは、衣笠貞之助や市川崑など大手五社の作品ばかりだ。
ユニフランスとは、フランス映画輸出協会。つまり米国映画輸出協会と同じ役割だ。するとアメリカのジョンストンやフランスのジュグラリスは、映画を通じて反共政策を世界に広める役割をしていた可能性が高い。ジュグラリスの場合、それが意識的だったかどうかはわからないが。
もともと世界最初のベネチア国際映画祭が1932年に作られたのは、ムッソリーニの提唱だった。1938年にリーフェンシュタールの『オリンピア』がグランプリで、カルネの『日はまた昇る』が賞を逃した時、フランスではベネチアはもう同盟国にしか賞を出さなくなったから、フランスに映画祭を作ろうという運動が起こる。当時のフランス新聞には既にカンヌに決まったという報道さえある。
結局カンヌができたのは46年だが、映画祭とはそもそも国際的な陰謀によって仕組まれているのかもしれない。
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