『abさんご』に戸惑い、楽しむ
芥川賞を受賞した黒田夏子の『abさんご』をようやく読んだ。「ようやく」というのは、薄い本なのに、読むのにずいぶん時間がかかったから。これは、普通の小説ではない。
それ以前に、普通の本ではない。左側には「abさんご」という表紙があり、横書きで始まり、右側には「毬」「タミエの花」「虹」と三篇の題名が書かれて、縦書きだ。そして真ん中に「あとがき」ならぬ「なかがき」が書かれているという、まさに異形の本だ。
とりあえず受賞作の『abさんご』を開けると、<受像者>という見出しがあって、以下の文章が続く。
「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと、会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから、aにもbにもむえんだった.」
こうひらがなが多くては、普通に読めない。中身も主語や述語が明確でないので、よくよく読まないと理解できない。私は最初これはいわゆる前衛詩のようなものかと思った。何となく言葉の連なりの雰囲気というか、リズムやイメージを楽しむようなものかと。
確かにそうだが、ゆっくり読むとどうも物語のようなものはある。語り手がいて、その子供時代から、一つの家を舞台に、自分の何十年という生涯を語っているようだ。
読んでいるとほとんど古文の読解に近い。そのうえ記憶と夢や空想が混じっているから、やはり前衛詩でもある。しかし芥川賞と思ってこの本を買った人は驚くだろうな。大半の人は最後まで読めないのではないか。
報道された通り、著者は75歳。「生きているうちに賞をいただきありがとうございます」と言った人だ。右側から始まる3篇の小説は、25歳から26歳にかけて書かれたものと「なかがき」に書かれている。その間に何と半世紀が過ぎているが、3つの短編と「abさんご」はその微視的な描写がかなり似通っている。
「なかがき」の終わりの謝辞の前にこう書かれている。
「そして,どうであったろうと,多くのぐうぜんにもたすけられながら半せいきを生きしのいでこられて,この,まえがきではなく,なかがきというものを書けるめずらしさにめぐりあえてあことを,いまはすなおによろこびたいとおもっております.」
とんでもない確信犯だ。
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