柴田元幸氏のような文章が書けたら
柴田元幸氏と言えば、ポール・オースターを始めとする現代アメリカ文学の翻訳でいつも名前を見ている。彼が訳したのならおもしろいかも、と思わせるくらい私は勝手に信用している。というのは、彼自身の文章がうまいから。彼のエッセー集『それは私です』を読んだ。
最初から、人を食ったような短編が並ぶ。例えば「自分がいっぱい」は、「しばちゃん」という飲み屋のおやじが自分に似ているという話から始まる。それから羽田空港のローソンで柴田という名札の男が自分に似ていることに気付く。そして論文審査に出かけた札幌のホテルで夢を見る。
そこでは街の中で会う五分の二くらいは、自分に似ている。それからというもの、現実でも何十人と人がいれば必ず自分に似た人がいる。
ある日、「しばちゃん」を見つけて入ると、そこはまずかった。それから自分に遭遇することはなくなった。「しばちゃん」もつぶれた。
「とはいえ、不気味なことに、今回は看板にイラストがないので何とも言えないが、「しばちゃん」があったところから少し先へ行ったあたりに、新しいスパゲティハウス「しば坊」が開店したのである」
こうまとめるとこの小説のおもしろさが抜け落ちた感じなので、現物を読んでもらうしかない。しかし、この自我意識の強さとそれを見せながら自ら揶揄するうまさは抜群だ。
エッセーの部分で一番気になったのは、「餅は餅屋で」という文章で、「僕はエッセイでは絶対教訓を書かない主義であり、社会時評的発言もしないようにしている」というくだり。
確かに文学者が教訓を垂れたり、社会をわかったような批評を書くのはカッコ悪い。このブログでも時々そうなりがちなので、これは肝に銘じたい。私は別に文学者でも何でもないが、せめて彼のような羞恥心というか洒脱さはマネしたい。
そういえば、最近読んだ本に「あらゆるエッセーには自分が頭がいい、えらいと書いてあるが、要はそれをどう隠すかが腕の見せどころ」という意味の文章があった。その本がなぜか見つからない。
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