占領下の映画検閲
このブログをお読みの方はお気づきのように、私の読書には脈絡がない。暇さえあれば本屋に行って思いつきで買うし、書評を読めばアマゾンに注文する。ところが意外に寄贈を受けた本は読まずに礼状を書き、そのまま本棚にしまうことが多い。平野共余子著『天皇と接吻』がそうだった。
1998年に出た本で、「謹呈 著者」の札が挟まっていた。平野さんは存じ上げているが、実を言うと買ったとばかり思っていた。
副題は「アメリカ占領下の日本映画検閲」。もともとは1987年にニューヨーク大学に出した博士論文をもとに、1992年に英語で出版したものを、本人が訳したものらしい。これが、今まで知らなかったことが満載で、博士論文とは思えないほどおもしろかった。
調査の基本となったのは、占領中の総司令部の検閲書類。今では日本の国会図書館でも閲覧可能らしい。さらに検閲官の手の入った日本の雑誌などが高校生の映画クラブのガリ版刷りに至るまで、メリーランド大学に保存されているという。
まず、なぜ検閲が行われたかについてだが、これは戦時中の日本映画を占領軍が検証したら、愛国精神を養わせるのに大きな役割を果たしたことがわかったからだという。そこで、民主化するのにも同じ手段を用いて、アメリカの民主主義に合致する映画ばかりを作らせようと決めたことが書かれている。
映画はまず企画書と脚本を英訳して提出し、それから完成後に再び検閲を受けるという二重のシステムだった。これが1946年1月から1949年6月まで。その後1952年4月までは事後検閲のみが続いた。
明らかな軍国主義、封建主義でなくても、最初は富士山を登場させるのも禁じられたという。富士山麓の開墾をテーマにしたマキノ政博の『粋な風来坊』は、富士山が写る場面がカットされた。
驚いたのは、戦争と関係なさそうな小津安二郎の映画も検閲で変更されたということだ。『晩春』で主人公の娘の健康状態が悪いのは「戦争中海軍に徴用されたため」というセリフは「海軍」をはずし、「戦争中にやらされた仕事のため」と被害感を強めたという。あるいは京都の場面で「東京にはこんなとこありませんよ。焼跡ばかりで」というところが、「東京はどこもほこりっぽくていけない」となった。そもそもこの映画の「お見合い」自体が封建的という意見も出たが、それはどうにか通ったようだ。
この本はこうして検閲の様子をジャンルごとにを事細かに再現する。おもしろいのは、日本映画は占領期を経ても基本的に変わらなかったという指摘だ。むしろその後の黄金期にそのままつながっている。日本人の柔軟さというか、いい加減さというか、そんなものを感じた。
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