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2013年4月14日 (日)

永田雅一の謎

最近、1950年代の日本映画の国際進出について調べている。1951年に『羅生門』がベネチアでグランプリを取ってから、黒澤と溝口を筆頭に突如として日本映画が世界に出てゆくわけだが、それを調べているとどこかにCIAの影がある気がする。

こう書くと、昨日書いた有馬哲夫著『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』を思わせるが、正力松太郎や児玉誉士夫に比べたら、映画界にはさほど重要な人物はいない。というより、映画の重要性は低い。

それでも戦後、国際映画祭が反共の砦として利用されたのは間違いない。ベネチアは1932年に創設されたが、1938年にリーフェンシュタールの『オリンピア』がグランプリを取ってからは、日独伊の映画が中心になった。戦後、1946年にカンヌができたが、1950年頃からはカンヌもベネチアにもソ連や旧東欧の映画は出品されなくなる。1951年に始まったベルリン国際映画祭は、明らかに東ベルリンに西側の映画を誇示するために作られたものだ。

日本映画は共産圏の抜けた穴を埋めるのに最適だった。他方、共産圏の映画は、モスクワやチェコのカルロヴィヴァリの映画祭に集まる。日本は戦後共産主義が大きな力を持ち、労働運動が盛んだったから、共産化の恐れがあった。西側は何とか日本の共産化を防ぎ、自らの陣営に引き込むためにも、日本をカンヌやベネチアに引きずり込み、賞を出したかった。

以上の後半は私の推論。しかし『羅生門』をベネチアに出すのに尽力したイタリア人のジュリアーナ・ストラミジョーリも、カンヌに日本映画を出し続けたフランス人マルセル・ジュグラリスも、調べれば調べるほどどこか西側スパイの影がある。

日本人で怪しいのは永田雅一と川喜多長政。永田は『羅生門』を作った大映の社長で、その後もカンヌでグランプリを取った『地獄門』など時代物映画を世界に出し続けた。今回初めて彼の自伝、『映画自我経』(1957年刊)を読んでみた。

戦時中の映画統合の流れの中で、東宝、松竹を中心とした2系統になろうとしたところ、日活、新興、大都の3社を中心に3つ目の会社「大日本映画製作株式会社」を作り上げたのは永田だった。いわば国策会社だが戦後も「大映」としてそのまま生き残り、永田の公職追放は短かった。そして1949年夏、映画人として初めてアメリカに招かれる。

彼のアメリカ好き、共産主義嫌いは本を読めばすぐわかるが、これが意図的に操作されたものであったかどうか、自伝ではわからない。永田雅一の謎は奥深い。

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