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2013年6月26日 (水)

清水宏の戦後を考えると

考えてみたら、フィルムセンターで一つの特集を追いかけるなんて、学生時代以来なかったことだ。メリエスやルノワール、ホークスなどそこで自分が上映の企画をしていた時さえも、全部は見る時間がなかった。今、清水宏の作品を年代順に見ていくと、いろいろ考えさせらる。

一番思うのは、戦後になってサイレントやトーキー初期時代の輝きがどこかに失せたことだ。21歳で初監督をし、同じ年生まれの小津安二郎の先輩格として、松竹蒲田や大船の筆頭監督だった。それは『港の日本娘』(33)や『金環触』(34)、『有りがとうさん』(36)や『按摩と女』(38)などを見ればよくわかる。

おそらくその頃の清水は、量の上ではもちろん、質の上でも小津を凌駕していたのではないか。清水は163本を監督しており、現在残っているのは50本余り。その一部を見るだけでも、独創的な才能のきらめきは明らかだ。ちなみに同じ年の小津が生涯で37本を作っているから、その多作ぶりは際立っている。

そのうえ清水の場合、戦前だけで140本。戦後も松竹に留まって、いわゆる傑作をほぼ毎年一本ずつ発表した小津に比べて、清水は新東宝から大映と移り歩く。『蜂の巣の子供たち』(48)や『小原庄助さん』(49)、『もぐら横丁』(53)などそれなりに評価された作品もあるが、小津の『晩春』(49)や『東京物語』(53)の高い評価には遠く及ばない。

あるいは5つ上の溝口健二にしても2つ下の成瀬巳喜男にしても、戦後はそれぞれ大映、東宝に腰を据えて傑作を連発している。そんな中で清水はどんな心境だったろうかと考える。『映画読本 清水宏』の年譜には、彼が戦後も小津や溝口と仲良く交流し、それぞれの死を見送ったことが細かに書かれているが。

同書で『サヨンの鐘』について、田中眞澄氏が以下のように書いている。

「この作品は松竹大船作品として企画され、下賀茂作品として完成した。大船筆頭監督たる清水宏の傍若無人な振舞いに対する、他の監督たちの反感や嫉妬は根強いものがあり、長年の庇護者の城戸所長も、遂に断を下して清水を下賀茂に左遷したのであった。清水宏の自由で、かつ自由な映画作りを可能にした根拠地は、かくて失われた。その後の彼は、遂に日本映画の本流に復帰することはなかったのである」

その年、清水はまだ40歳。何と残酷かと思う。今日は実は戦後の3本についてまとめて書こうと思ったが、また後日。


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