『映画にとって音とは何か』再読
四半世紀ほど前、熱中して読んだ著者の1人にミシェル・シオンがいる。彼の「映画における声」La voix au cinema(82)や「映画における音」Le son au cinema(85)の2冊は、仏語だったにもかかわらず辞書を引きながら読んだ記憶がある。後者は『映画にとって音とは何か』という書名で93年に邦訳が出ていたが、手に取ったことがなかった。
1993年は私が新聞社に転職した年で、仕事が楽しくて仕方がなかった頃だ。この頃あたりから10年ほどは、難しい本は読まず、映画もあまり見ていない。仕事ばかりして、酒ばかり飲んでいた。
昨年末に『映画にとって音とは何か』を入手したのは、卒論でジャック・タチ監督を取り上げた学生がいたから。タチの分析があったはずだと図書館で調べたらずいぶんおもしろかったので、古本で買った。
今回、読み直して一番おもしろかったのは、映画音楽をオペラのオーケストラ・ボックスに譬えている点だ。映画音楽はスクリーンの中に音源があったり、スクリーンの外でも映画世界内に音源があったりすることが多い。口笛が聞こえると、遠くで誰かが吹いていたという類だ。
ところが現在の映画音楽は、映画を盛り上げるためにどこからともなく聞こえてくる場合が多い。これをオペラのオーケストラ・ボックスが、観客にはほとんど見えない様子に譬える。
考えてみたら、映画は1895年のリュミエール兄弟によるパリでの初めての上映の時から、ピアノの伴奏があった。つまり「無声」映画は存在したことがない。最初から映画は楽師や弁士の声と共にあった。彼らは舞台袖の見えない存在だった。
トーキーになって、最初は映画音楽がある時は必ず楽器が出てきたが、すぐに音楽がどこからともなく聞こえるようになる。楽師の亡霊が蘇り、オーケストラ・ボックスから流れる音楽が映画を埋め尽くす。1930年代の映画はその試行錯誤で、100%音楽がある映画や全く音楽がない映画が混在しているという。
そういえば、最近コロンビアから状態のいいDVDが出た『ヒズ・ガール・フライデー』(1940)を再見したら、最初と最後以外には音楽が全くないのに驚いた。あるのは、強烈なまでの言葉の掛け合いの連続。スクリューボールコメディ(変人喜劇)と言われるのがよくわかる。
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