映画をメディアとして見ると
赤上裕幸著『ポスト活字の考古学 「活映」のメディア史 1911‐1958』を読んだ。1982年生まれの著者が博士論文を本にしたものでずいぶん分厚いが、映画をメディア史の中で考察した本は少ないので、興味を惹かれた。
そもそも「活映」という言葉が気になったが、これは1920年代後半から「活字」と対比して使った言葉だという。つまり、これからは活字ではなく、映像でコミュニケーションができるのだという発想で、おそらくベラ・バラージュの『視覚的人間』あたりが下敷きにあるのだろう。
その運動の中心となったのは、大阪毎日新聞の水野新幸で、彼は「低級娯楽のイメージが強かった「映画」という言葉を避け、教育的文化的使命を持つフィルムについては「活映」と名づけて区別した」
水野の講演記録から引用すると「教科書に即した参考書、授業細目を按排して作ったテキスト・フィルムを国家が作って学校に提供して教えることになれば、貧困児に教科書を買わせることもいらない、ただノートを持たして教えることができるのであります」
つまり本の代わりに映画をというもので、その映画は教育的内容の文化映画、今で言うドキュメンタリーとなる。この本は、映画の主流にならなかった文化映画の製作と上映運動に焦点を当てたものだ。
水野は1928年に全日本活映教育研究会を作り、フィルム・ライブラリーを備えて全国の上映運動を組織する。そして月刊誌「活映」を発行し、「論文フィルム」と呼ぶ教育映画の製作に乗り出す。その集大成が1933年の『非常時日本』という。
私はかつてこの映画を山形ドキュメンタリー国際映画祭で見たが、荒木陸軍大臣が正面を向いてえんえんと訓辞を垂れるだけの、本当に退屈な映画だった記憶がある。そのうえ1時間39分もあるので、当時も上映には苦労したようだ。
そうしてこの運動は、1939年の映画法での文化映画強制上映につながり、あるいは満州での16ミリによる文化映画上映運動につながってゆく。この本はその人脈が戦後の東映動画につながり、現在のジブリに至ることを示す。前半の記述は面白いが、後半の流れは少し強引に思えた。
そもそも1930年代日本の文化映画隆盛が、本当に新しいメディアを作るような発想だったのか。むしろ世界的な全体主義の流れの中でできたものではないのか。そしてその運動を現在の電子書籍と結びつけるところに、無邪気な楽観主義を感じてしまう。このあたりは同じ世代の渡邉大輔著『イメージの進行形』にも共通している。
それにしても最近の若い学者は、文系でも博士論文をどんどん書き、本にする。そもそも博士論文を書いていない私は何とも肩身が狭い。もっとも、映画の分野では博論を書いていない大学教員の方が多いけれど。
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