« 絶品のおまかせ料理2軒 | トップページ | なぜ日本の金持ちは美術を買わないか »

2013年7月 8日 (月)

『華麗なるギャツビー』の空虚な華麗さ

公開中の『華麗なるギャツビー』を見た。1920年代アメリカ、狂乱の時代にパーティーに生きる人々を、屋敷も衣装もコテコテ豪華に見せる。そのうえ3D。視覚的に楽しんだので見て損したとは思わないが、空虚な思いに駆られた。

空虚と言うのはパーティのことではなくて、視覚的効果が盛り上がるのと反比例するように、物語の力がするすると抜けていった気がしたからだ。30分以上も待たせてようやくギャツビーが登場する時の、あのオーラのなさは何だろうか。

ギャツビーを演じるディカプリオなら、もっと泥臭い怪しい素性の香りを漂わせることが容易だったはずだ。ところが彼にその匂いが足りず、キャリー・マリガンにも気まぐれ女性の意地悪さが希薄だ。彼ら2人の出会いや別れには、決定的なシーンがありそうでない。すべては泡のごとくに遠くに消えてゆく。

視覚的効果を最重視する点で、この映画は『グランド・マスター』や『ザ・マスター』と同じく明らかに21世紀の映画だろう。奇しくも3本とも歴史物だが、『グランド・マスター』でウォン・カーワイがアクション映画の枠組みで、男女の機微を極上のメロドラマとして描いたような映画的才能が、バズ・ラーマン監督には決定的に欠けている。

あるいは『ザ・マスター』でポール・トーマス・アンダーソンが描いたような、途方もない妄想に生きる人々を力強くリアルに描くこともない。あるのはシャンパンの泡のようにすぐに消える「華麗さ」のみだ。

オーストラリアに建てられたセットで撮られたというこの映画を見ながら、私はオーソン・ウエルズの『市民ケーン』(41)の豪邸を考えた。あるいはその元となったという、新聞王ハーストの成り上がり人生とギャツビーの生涯はは似ているのかとも。それから最近早川雪洲の伝記を読んだので、彼が1920年代にハリウッドに建てた豪邸はこんなものだったのかとも思った。

映画を見ながらこんな具合にたくさんの思いがよぎったことも、映画に集中できず空虚に感じた理由かもしれない。

|

« 絶品のおまかせ料理2軒 | トップページ | なぜ日本の金持ちは美術を買わないか »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/57747764

この記事へのトラックバック一覧です: 『華麗なるギャツビー』の空虚な華麗さ:

« 絶品のおまかせ料理2軒 | トップページ | なぜ日本の金持ちは美術を買わないか »