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2013年8月15日 (木)

二度目の『ハンナ・アーレント』

昨年の東京国際映画祭で見た『ハンナ・アーレント』が10月24日に公開されるというので、また見に行った。その映画祭で一番気に入った作品だったというのがその理由だが、昨日ユダヤ人問題について書いたので、もっと知りたいとも思った。

この映画は、ドイツ系ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を巡る文章を『ニューヨーカー』誌に連載し、ナチを弁護したと非難の嵐に会う物語だ。

昨年見た時は、「友人や同僚に嫌われても、自らが考えたことを決して曲げない女性の強さに、深く心を動かされた」「文章を書くとはこういうことか、本物のインテリとはこういう人か、と考えさせられた1本」とこのブログに書いている。

今回は物語がわかっていたこともあって、彼女の生き方への感動よりも、監督のマルガレーテ・フォン・トロッタが彼女をあくまで自由な人間として描こうとしていることに関心が向かった。

冒頭に、アルゼンチンででイスラエルの諜報組織モサドがアイヒマンを誘拐するシーンが写る。これはまともな行為には見えない。あるいはアーレントの机には2つの写真がある。師であり愛人であったハイデッガーと、イスラエルに住む友人クルト。ハイデッガーはナチスに協力した哲学者として非難されるが、映画はアーレントと彼との関係を見せて、戦後に再会するシーンまで見せる。

あるいは、夫もまたシャルロッテという女性と関係があることが示される。夫婦で愛し合っていながらも、理屈では説明できない人間の行動をお互いに認めている。そのことが、アイヒマンに対する彼女の自由な見方につながっている。

それは「私はユダヤ人を愛するのではなく、友人を愛している」という言葉に象徴される。つまり、好きなものは好きという、根源的に自由な発想だ。当然それは、ナチスを悪魔とするユダヤ人コミュニティの発想からはみ出す。

もう一つ驚いたのは、アイヒマンの発言がすべて当時のドキュメント映像だということだ。誰かが演じていたらとてもあのふてぶてしく凡庸な姿は見せられなかっただろう。これも明らかに演出の勝利。

運命に立ち向かうアーレントを、舐めるように流麗なカメラで見せるのは、キャロリーヌ・シャンプチエ。彼女が撮影した『神々と男たち』の死を覚悟した修道士たちの悲壮な姿と重なる。極めて倫理的なカメラワークだ。特に終盤の演説シーンは記憶に残る。

前回見た時に「本物のインテリとは」などと思ったのは、ちょうどその時WEBRONZAに「東京国際映画祭はどこがダメなのか」を連載中で、どこまで書くべきか悩んでいたからだとふと気がついた。どうもこの映画に勇気づけられたようだ。ハハハ。

もう一つ。哲学者を描いた映画は珍しい。画家や歌手や小説家はいくらでもあるが、哲学者はいい映画にはなりにくいようだ。アーレントのように「行動する哲学者」でないと難しいのだろう。『サルトルとボーヴォワール』という凡作はあったが。

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