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2013年12月30日 (月)

かぐや姫から平等院、そして森村泰昌へ

『かぐや姫の物語』を見た時気になったのは、終盤で月から来る迎えの人々の描き方だった。あれでは月と言うよりも、仏教的な西方極楽浄土からのお迎えのように見えた。そんな時、サントリー美術館で来月13日まで開催中の「天上の舞 飛天の美」展を見て、これだと思った。

これは、「飛天」という仏教的なテーマを、インド、西域から中国・朝鮮を経て日本までの美術の中にたどったもの。というよりは、特別出品の平等院の国宝の仏像を見せるために、それに至るまでの「飛天」のイメージを追ったものだろう。

何より6体の平等院像の阿弥陀如来坐像光背飛天像と雲中供養菩薩像14体が圧巻だ。とりわけ後者は本来阿弥陀如来像の後ろの壁に並べられたものだが、展覧会で近くで見ると、それぞれが摩訶不思議な楽器を演奏するポーズを取っている。その楽器の多様さといったら。

飛天像も菩薩像も足のあたりにはどれも雲が描かれていて、それらが並んでいる様子が、映画『かぐや姫の物語』の雲に乗ったお迎えの一団を思わせる。ということは、あの映画のラストは極楽浄土からお迎えが現世に来迎している図であって、月に行くというよりかぐや姫の死を意味しているのではないか。そんなことを考えた。

これらの平等院の仏像は、11世紀半ばにできた。高畑勲が大好きな《鳥獣戯画》などの絵巻物は12世紀で、時代も近い。

全く関係ないが、先日資生堂ギャラリーで見た「森村泰昌展 ベラスケス頌:侍女たちは夜に蘇る」(すでに終了)も、その侍女たちに扮する森村の写真を見ながら、仏教的なものを感じた。

森村はプラド美術館の《ラス・メニーナス》(侍女たち)の前に立ち、美術館という空間の中で8つの構図を作り上げる。自分が扮する侍女たちが絵を見ていたり、絵の登場人物達が絵画の中にいる森村扮する侍女たちを見たり、全部で8通り。

西洋美術に遮二無二入り込んで、自分だらけの曼荼羅のような世界を作り上げる森村の世界は、無数の菩薩像に似ていなくもない。もちろんこちらは『かぐや姫の物語』には全く結びつかないけれど。年末でヒマなせいか、とんでもない妄想ばかりする。

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