« かぐや姫から平等院、そして森村泰昌へ | トップページ | 正月に考えること »

2013年12月31日 (火)

『ゼロ・グラビティ』から『ワレサ』へ

今年最後の映画は何にしょうかと迷って、木場のアイマックスシアターで『ゼロ・グラビティ』を再び見ることにした。友人からそこで見たというメールが来て、羨ましくなったから。この傑作をもう一度全身に浴びたいと思った。

実はアイマックスで劇映画を見るのは生まれて初めて。かつての博覧会映像のように、360度みたいなものかと思っていたが、入ってみると意外に普通。それでも格段にスクリーンが大きいし、音がいい。

見終わった一番の感想としては、1回目に聞こえなかった音があちこちで聞こえたということだ。例えば最後のクレジットの音楽に通信のノイズが入っているのは、今度気づいた。もっと沈黙の場面があったように感じたが、今回見ると極めて少ない。だからジョージ・クルーニーがサンドラ・ブロックのいる飛行船に戻ってくるシーンで、宇宙船の扉を空けると、一挙に宇宙の沈黙が広がる。

サンドラ・ブロックの孤独感が身に染みたのは、2度目で彼女がどうなるのかという心配がなかったからか。途中でいったんあきらめながらも、何とか生にしがみ付く。時おり笑いも出てくる。最後の地上のショットが良かった。この女性の孤独の闘いに、私は『かぐや姫の物語』を思い出した。ともに劇場で2回見た、私にとっての今年の映画。

孤独と言えば、少し前に試写で見た4月5日公開のアンジェイ・ワイダ監督『ワレサ 連帯の男』は、饒舌な男の孤独な姿を描いていた。この映画は、80年代初頭のイタリア人女性によるワレサのインタビューを軸に進む。

ワレサはもっと知的で静かな人間かと思っていたが、そこに描かれるのはおしゃべりでいささか傲慢な感じの男だった。インタビューの合間に、家族とのやり取りや、1970年代から彼がいつのまにか英雄になってゆく様子が挟み込まれる。

正直に言うと、最近の『カティンの森』や『菖蒲』に比べると、映画としての完成度は低いように思えた。というより、全体が混乱の中で進むので、映画的なドラマを感じるよりも、時代の無秩序を体感する感じだろう。連帯を描いて『大理石の男』や『鉄の男』で国際舞台に再浮上したワイダが、どうしても最後に描いておきたかったのがワレサだろう。

だからこそ、落ち着いてドラマ化するのではなく、起きた現実そのもののように、記録映像と再現映像をつなぎ合わせながら、虚実の境目を無くし、愛憎を含めてそのまま放り出したのだろう。そこにワレサを通じたワイダの孤独が見えた。それにしても、男の孤独はなぜかくも騒々しいのか。

また年末の妄想で、全く似ていないものを比べてしまった。それではみなさま、よいお年を。

|

« かぐや姫から平等院、そして森村泰昌へ | トップページ | 正月に考えること »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/537538/58852286

この記事へのトラックバック一覧です: 『ゼロ・グラビティ』から『ワレサ』へ:

« かぐや姫から平等院、そして森村泰昌へ | トップページ | 正月に考えること »