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2014年3月23日 (日)

中村一美展と団体展と

六本木の国立新美術館というのは、奇妙な場所だ。マスコミが企画を持ち込む「オルセー美術館展」もやれば、学芸員が主体の地味な現代美術展もやる。一方で「日展」を始めとした団体展に貸し出している。先日、5月19日まで開催の「中村一美」展を見た。これはもちろん学芸員主体の展覧会。

正確に言うと、友人が出品している「日本アンデパンダン展」を見に行くついでに、「中村一美」展を見た。今も九州で絵を描いている小学生の時の友人から、見てくれと招待状が送られてきた。

もちろん、中村一美展はすばらしかった。「絵画は何のために存するのか」「絵画とは何なのか」という副題があながち大げさに見えないほど、現代における絵画表現を追求した抽象画が続いていた。それも2メートルや3メートルの大型の絵が、あの広い空間にこれでもかと並んでいる。

マティスやセザンヌの後に、ポロックやロスコがあって、さてその後に何ができるかともがきながらも、一枚ごとに線や色彩の冒険を続けているさまが、異常な迫力で迫ってくる。何よりマティスに似た赤や青が印象的だ。

最後から2つ目の部屋で、突然壁紙が金のグリッド入りのダイダイになった。ここで息を飲み、最後の薄暗い部屋で、出口から聞こえる小さな物音を聞きながら、茫然とした。

日本アンデパンダン展は、まさに玉石混交。正直なところ、小学生の夏休みの宿題レベルもあるが、多くは町の絵画教室といった感じ。そのうえ彫刻や書道や工芸も交じっている。そのなかで100人に1人くらい、そのレベルを明らかに超えた作品もある。

私の友人は3点を出していたが、幸いにしてかなりレベルの高いものだった。それでも有象無象の中に交じっていたら、とても良くは見えない。プロが見て発掘することもないだろう。

家に帰って「日本アンデパンダン展」をネットで見たら、誰でも参加できるという。出品料は平面で163センチ四方以内なら、1点11000円。数えていないが軽く千点はあったから、合計すると1千万円にはなる。これで主催者は会場借料を払うのだろう。ちなみにあのスペースだと借料は2週間で400万円弱。

最近問題になった日展や書道展も、基本的なシステムは同じ。ある意味では美術愛好家の集金マシーンで、国や都の美術館がそれに場所を貸す。東京都美術館も国立新美術館も団体展の予約で一杯らしい。

本来なら才能のある美術作家を美術館が主体的に探し、引き上げてゆくのが理想のはずだが、「日本アンデパンダン展」に出す人々は、永遠に中村一美のような個展はやってもらえないだろう。日本の美術界は、どこか基本が間違っている。その象徴が、2007年にできた国立新美術館であることは言うまでもない。

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