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2014年4月27日 (日)

「バルテュス展」をめぐって:その(1)

上野の東京都美術館で「バルテュス展」が始まった。何とも感慨無量。なぜなら、元展覧会屋の私はこれまで3度もバルテュス展をやろうとしてうまくいかなかったから。

最初は1994年頃だろう。新聞社に転職して間がない時だが、建設中の東京都現代美術館でやるという予定で、現美の学芸部長で亡くなられた矢口さんや今は神戸大で教えている宮下さんたちと何度か会議をした。ところがその矢先に東京都ステーションギャラリーで小規模の展覧会があって、それから何となく立ち消えになった。

2度目はもっと現実味があった。2001年9月、パリに住んでいた飯山さんとベネチアのパラッツォ・グラッシで開催されたバルテュス展のオープニングに参加後、節子夫人と監修者に予定されていたジャン・クレールさんとホテル・モナコのテラスで食事をした。その半年前にバルチュスが亡くなったこともあって、多くの傑作が集まっていた。クレールさんはジェラール・レニエという名前でピカソ美術館の館長でもあった。

その時には、ベネチア国際映画祭を始めて取材に来ていた朝日の石飛記者も同席していた。ほぼフランス語での昼食に彼は「食った気がしなかった」と言っていたけれど。何を話したかもはや覚えていないが、節子さんもレニエさんもやることに同意していたはずだ。

それから諸般の事情で飯山さんがチームをはずれたこともあり、クレール氏との連絡は途絶えた。それを打開しようと、2005年7月、役員の欧州出張に私が同行することになった時に、彼とのアポを取り付けた。ところが約束の時間にピカソ美術館に着いてみると、彼は体調不良で休みという。

さすがに役員の手前私もカッコ悪く、知り合いの学芸員のアンヌさんを呼び出したところ、「私が年末に館長になる」と言われた。これが2009年のピカソ展の発端だが、それはまた別の話。

役員が先に帰国し、私はスイスのジャナダ財団に行った。そこは私立の美術館だったが、館長のジャナダさんは2007年にバルチュス展を予定していた。日本への巡回の可能性を聞いたが、全く関心を持ってもらえなかった。

それから2か月後、ベネチア映画祭の帰りにパリに寄り、クレールさんと会うべくアポを取った。ところがまた来なかった。私は2度アポをすっぽかされたことを、当時「カノッサの屈辱」と呼んでいたことを覚えている。最近彼と会った飯山さんの話だと、「日本での仕事はないかな」と言っていたらしい。

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