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2014年4月25日 (金)

本当に「女のいない男たち」か

村上春樹の新作短編集『女のいない男たち』を読んだ。相変わらずうまい題名だと思ったが、「まえがき」によればヘミングウェイに同名の本があるらしい。"Men Without Women"で邦題は『男だけの世界』。

村上の本は題名からすると、普通は「女にもてない男たち」を想像するが、考えてみたら彼の本で本当にもてない男は出てこない気がする。

この本に出てくる男たちも、もてないのではなく、ある理由で女との別れを経験した男たちばかり。例によってもてるのに女にがっつかない男たちばかりだ。6つの小説に出てくる男の境遇はいろいろだが、誰もお金に困っていないし、女にさえ不自由していない。

『ドライブ・マイ・カー』では、妻に先立たれた舞台俳優。
『イエスタデイ』の主人公は元出版社勤めの小説家だが、“女のいない男”は学生時代の友人でデンバーで鮨職人をしている男。
『独立器官』は独身主義者の医師。
『シェエラザード』は陸の孤島にいる男で、週に2度女が訪ねてきて身の回りの世話をして性交をして帰る女がいる(!)。
『木野』は妻に浮気をされて別れ、バーを営む男。
『女のいない男たち』は、かつての恋人の夫から彼女の悲報を聞く男だが、妻もいる。

短編集と同じ題名で今回唯一の書き下ろしである最後の小説の終わりあたりに、こう書かれている。「ある日突然、あなたは女のいない男たちになる」「女のいない男たちになるのが、どれくらい切ないことなのか、心痛むことなのか、それは女のいない男たちにしか理解できない」

あるいは「まえがき」に書く。「僕がこれまでの人生で巡り会ってきた多くのひそやかな柳の木と、しなやかな猫たちと、美しい女性たちに感謝したい。そういう温もりと励ましがなければ、僕はまずこの本を書きあげられなかったはずだ」

私には、全体が自分中心のナルシシズムに見えた。時には女性差別すら感じた。『ドライブ・マイ・カー』の冒頭に女性ドライバーが2種類に分かれるという類型化が出てくるが、こうした「女は」という表現はほかにもある。短編だけに作家の本音がポロリと出た感じだが、“男のいない女たち”、あるいは“男のいる女たち”はこの小説をどう受け止めるのだろうか。

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