カズオ・イシグロのベネチア
1年ほど前に読んだ本に、カズオ・イシグロの短編集『夜想曲集』があった。カンヌ映画祭の結果を見ながら、今年はベネチアに行きたいなと考えていたら、その本のことを思い出した。副題は「音楽と夕暮れをめぐる5つの物語」。
なぜベネチアかというと、この短編集の最初の作品が、ベネチアのサン・マルコ広場のミュージシャンが主人公だから。行ったことのある人は覚えていると思うが、あの広場にはいくつかのカフェのテラス席があって、夕方あたりから小さなオーケストラがいくつも演奏している。
「オーソレミオ」とか「ゴッドファーザー」などのイタリアを思わせる有名な曲ばかり演奏しているが、彼らはどこの出身かなと思っていた。案の定、この短編の主人公はチェコ生まれ。
その広場のカフェにはよく有名人が来るらしい。ある日、主人公はトニー・ガードナーというかつて有名だった歌手を見つけて話しかける。小説はガードナーの一生を振り返る。
有名だったガードナーに知り合って、夫を捨ててガードナーと再婚した妻。それから次第に落ち目になるガードナーは、もう一度有名になろうと、若い妻との結婚を企てる。結婚27年目にベネチアを再訪して、ガードナーは主人公の助けを得てゴンドラから妻に歌いかける。
たぶん30分もあれば読める短い小説だが、そこにはアメリカのエンタテインメント界の栄光と悲哀があり、それ以上に夫婦の情熱と倦怠がある。さらには旧共産圏出身で小さい頃からアメリカの音楽に憧れて、今やヨーロッパをフリーのミュージシャンとして放浪する青年の姿がある。
この小説を読みながら、母と一度だけ海外旅行をしたことを思い出した。ベネチアでホテル・ヨーロッパ・エ・レジーナに着き、大運河に面した大きな部屋の窓を開けると、毎日夕方から観光客を乗せたゴンドラが見えた。舟を漕ぐイタリア人が歌う「オーソレミオ」を何度も何度も聞いた。
翌日ゴンドラに乗ろうと思っていたが、母は「もうわかったからいい」と言って、翌日も夕方になると窓からゴンドラを眺めていた。「これはアメリカ人」「これは中国人」とかいいながら。
また思い出話になったが、この短編集は音楽というテーマ以上に、中年の悲哀とか感慨が溢れていて、今の自分にぴったりだ。
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