恩師の本を読む:『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』
今年の1月に出た時買ったミシェル・マリ著『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』をようやく読んだ。著者のミシェル・マリは、カタカナだと男か女かもミシェルが姓か名前かもわからないが、Michel Marieと書く男性で、マリが姓。実は昔、授業を取っていた。
1984年から1年間パリにいた時、パリ第3大学映画研究学科の3年に登録していた。そこで中心となる映画分析の講義をしていたのが、ミシェル・マリ氏で、当時は40代の助教授だったと思う。
『二十四時間の情事』など映画史の名作を35ミリで(ビデオがなかった)ワンシーンごとに上映し、映写をストップして分析するという授業をしていた。彼はいつも製作の事情を事細かに解説していた。大学内のシネマテークも運営していて、毎日12時からと15時から古典を上映していた。
彼と再会したのは、1992年のポルデノーネ無声映画祭だったと思う。彼は私のことを覚えていて、「あなたは私にカンヌ映画祭に参加する方法を聞きましたね」と言った。学生よりも教師の方が覚えていることもある、と今になって思う。
さてノスタルジアはこのあたりにして、彼の本に移る。彼の著作は多いが、これまで翻訳が出たのは共著の『映画理論講義』くらいではないか。単著としては初の翻訳だが、これが地味な本に見えて実はおもしろい。
ヌーヴェル・ヴァーグと言えば、ゴダールやトリュフォー自身が書いた本が多数翻訳され、彼らと行動を共にした山田宏一さんが何冊も書いている。しかしその全体像を外側から冷静にかつ歴史的に分析した本は、少なくとも日本語にはないのではないか。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」(新しい波)という呼称が、「エクスプレス」という雑誌の1957年の特集記事から出たことは何度か読んだことがあったが、それが18歳から30歳までのフランス人へのアンケートをもとにした一大調査の結果報告とは知らなかった。つまり、新しい若者の習慣や道徳や生活様式を示したものだった。
この言葉を1959年の初めに封切られた映画やその年のカンヌで上映されたフランス映画に対して使ったのは再び「エクスプレス」誌だが、それはユニフランス・フィルム(海外にフランス映画を広める公的機関で、日本のフランス映画祭もここの主催)のキャンペーンに乗ったものだった。
つまりは新世代の風俗を示すジャーナリズムの言葉を、政府機関が映画に限定して使って、海外に新しいフランス映画を売り込むキャッチフレーズにした、というのが歴史的な事実のようだ。
その年は、シャブロルの『美しきセルジュ』と『いとこ同士』が2月と3月に公開され、トリュフォーの『大人はわかってくれない』とレネの『二十四時間の情事』がカンヌで上映され、翌年の5月に『勝手にしやがれ』が公開されて大ヒットとなる。
結果としては『カイエ・ドゥ・シネマ』誌の同人達の映画がその代表作となるが、決して『カイエ・ドゥ・シネマ』が「ヌーヴェル・ヴァーグ」と名付けたわけでも、広めたわけでもないことは重要だ。
この本に関しては、もう少し書くことがあるので、後日また。
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